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書いた小説の倉庫です

いつか芽吹いて花になれ(竜號)

※「やがては枯れて朽ちるもの」の続き
※死ネタ




部屋の主が去ってもなお、その病室にはまだ花の香りが残っていた。

最後のひと鉢を手放し終えた竜馬は、がらんどうになった病室に一人佇んでいる。ここにあった大量の花々はすべて枯れた。どれだけ新しい水を入れ替え、肥料を与え、手厚く世話をしてやっても、花の命はいずれ尽きる。切り花は一週間も持たず、鉢植えであっても季節の移り変わりには抗えずに萎んだ。生きるということはそういうことだ。花も、人も。――その事実を、完全に受け入れられたわけではない。そう思わなければ前へ進めなかった。無理矢理に自分を納得させようとした。それだけだ。

あれほど色に溢れていた病室から、全ての色が抜け落ちて、白一色の空間だけが広がっている。今はその白がやけに眩しい。竜馬は瞬きをした。目蓋を開けるたび、空っぽになったベッドに少年の姿を探した。もしかしたら、瞬きの合間に彼がそこへ戻っていて、「おはよう」と微笑みかけてくれるのではないかと思ってしまうのだ。無駄な期待だった。頭では分かっているはずなのに、願う心を止めることができない。

「やっぱり、ここにいた」
背後から声がして、竜馬は緩慢な動作で振り返った。やつれた表情のケイが病室の入り口に立っていた。
「ひどい顔だぜ」
「竜馬さんほどじゃないよ」

間髪を入れずにそう返されて、竜馬は思わず自分の顔に触れた。触っただけでは顔がいかほどの状態であるのかは分からない。だが相当に「ひどい顔」なのだろうと思う。沈黙の後、二人はどちらともなく笑った。乾いた笑いだった。涙を流すための器官はもうとっくに使い果たしていて、悲しみの感情はすべて洗い流されてしまっていたのだ。笑うことしかできないから、笑う。

「何しに来た。ここにはもう何もねえぜ」
「知ってる。あたしは竜馬さんに用があって来たの」

言いながら、ケイは片手に持っていた荷物を竜馬に差し出した。ひと抱えほどの大きさがある、アンティーク風のスーツケースだった。受け取ってみると、大きさの割にそう重くはない。ケイが「開けろ」とでも言うように視線で促してくるので、竜馬はベッドの上にスーツケースを乗せ、渡された鍵で蓋を開ける。
その中身が目に入った瞬間、竜馬は言葉を失った。はっと息を吸い込んだきり呼吸が止まる。目を見開いたまま動けない。

種だ。さまざまな種類の花の種が、スーツケースの中にぎっしりと詰め込まれていた。ざっと見回しただけでも種類は百を超えるだろう。種が入った袋や瓶には、それぞれに花の名前がラベリングされている。

「これは、」
「ゴウからの頼まれ物。竜馬さんに渡してほしいって言われたの」
「……ゴウ、が?」
久しく口にしていなかったその名を呼んで、竜馬は肩を震わせた。名前を呼ぶだけで息も絶え絶えになってしまう。抑え込んでいたはずの感情がまた堰を切って溢れ出しそうになる。
そんな竜馬の様子を見つめながら、ケイは静かに口を開いた。

「それを用意したのはあたしじゃなくて隼人さん。あたしはゴウのお願いを聞いて、隼人さんに伝えて、用意してもらったものを渡しただけ。……その種ね、それだけの種類と量を集めるのはすごく大変だったみたい。このご時世で、ただでさえ種は貴重なものだから……。世界中のシードバンクに協力を要請して、やっとの思いで掻き集めたんだって。他でもないゴウのお願いだったから」

竜馬は黙ってケイの言葉を聞いていた。多くの人の手によって集められたであろう種を見下ろす。
隼人とはもう長いこと口を利いていなかった。確か、隼人の頬を強かに殴りつけた時以来だ。何度か声を掛けられたような気もするが、相手にする気がなかったので覚えていない。隼人の野郎、俺の知らないところで動いてたのかよ――内心で悪態を吐く。隼人だけではない。ゴウもケイも、このことに関して竜馬には何も言わなかった。まるで一人だけ除け者にされた気分だ。

「……こんなもん貰って、俺はどうすりゃいいんだよ」
竜馬が低い声で呟くと、ケイは眉根を寄せて竜馬を睨みつけた。とうに乾き切ったはずの彼女の目尻から、新しい涙が滲んでいく。
「知らない。知るもんですか。ゴウは何も言わなかったんだから。自分がいなくなったあと、竜馬さんにそれを渡してくれって、本当にただそれだけ。それ以外の伝言は一つもなかったし、どうしてほしいかなんて、何も……。ねえ、今更ゴウに直接会って訊くことなんてできないんだよ。それくらい自分で考えてよ。竜馬さんにはもう分かってるんでしょ……?」

それきり、ケイは涙をこらえるように押し黙ってしまった。かける言葉を見失って竜馬も俯く。
ケイの言う通りだった。スーツケースに入れられた種を見た瞬間から、竜馬は自分がこれから歩むべき道がはっきりと見えていた。まるで天啓のように。ゴウが何を伝えようとしているのかも同時に理解した。

――なあ、お前、そんなに俺のことが心配だったのか?
苦笑まじりに顔を歪める。後追いなんてするわけがないだろうに――そう考えかけて、いや、していたかもしれない、と思い直した。少なくとも選択肢の一つには入っていた。自分から命を絶つことはしないが、間違いなく自分の命を紙のように軽く扱っていたはずだ。どこかの国の内紛に首を突っ込んで、知らない誰かに撃たれるというのもいいかもしれない。とにかく死に近付けるのなら何でもする。最期はきっと乾いた笑みを浮かべるのだろう。
一瞬のうちに、自分が歩もうとしていたかもしれない「もしも」の道が脳裏に浮かぶ。あまりにも簡単に、そして鮮やかに思い描けてしまったものだから、ますます苦笑いが深くなる。

ゴウの「お願い」は効果抜群だったというわけだ。ケイと隼人が、竜馬に何の相談もなく事を進めていたのにも納得した。きっと今このタイミングでなければ――ゴウがいなくなった後でなくては、ここまで竜馬の心に響かなかった。ゴウには何もかもお見通しだったのだろう。

竜馬の表情が和らいだのを見て、ケイは鼻を啜った。濡れた目元を袖で拭う。
「ゴウにお願いされた時ね、あたし、ちょっと竜馬さんが羨ましくなっちゃった。ゴウは形に残るものなんて、あたしたちには何も残してくれなかったから。……それがゴウらしいんだけどね」
彼が残したのは、抱えきれないほどの愛と優しさ。涙が出そうになるくらいにあたたかく、ぬくもりは彼がいなくなっても在り続ける。決して形には残らないけれど。

そしてただ一つ、ゴウは竜馬に花の種を残した。託した、と言う方が正しいのかもしれない。美しい花々、そのはじまりの種。命の粒。
竜馬はスーツケースを胸の前で抱えた。細くなってしまったあの体を抱き締めた時と同じように。何よりも大切で、何よりも失いたくなかったもの、けれど永遠に失われてしまったもの。今はここに残された欠片がある。続いていく世界と共に。



少女はひどく腹を空かせていた。毎日、毎時間、毎秒、常に腹が空いている。彼女が住む村には食料が足りない。どうにか飢えずに食いつないでいくだけの備蓄はあるが、どうしたって満腹にはなり得ない。
インベーダーの脅威が去って数年。命の危険に怯えることなく地上で生活できるようになったはいいが、食糧難の問題は依然として続いている。育ち盛りの少女にはあまりにも厳しい状況だった。

羊番をしながら、少女は今日の夕飯のことを考える。じゃがいもはまだ残っているはず。でも、肉はもう足りない。飼っている羊をまた一頭潰さなければならないだろう。可愛がっている家畜の数は日に日に減っていく。考えれば考えるほど憂鬱だ。

――ふと、視界の端に見慣れぬ姿を捉える。男が一人、こちらへ向かって歩いてくる。コート姿の大男だ。この国の人間ではないし、見るからに怪しい。少女は腰にさげたナイフに手をかけ、男の進行方向に立ちふさがった。

「そこを動くな。誰だおまえ。見かけない顔だ」
「……俺は、旅行者だ」
男は片言の言葉で答えた。イントネーションは少々おかしいが、この国の言語は理解しているらしい。怪しさは拭えないものの、敵意は感じない。少女は警戒を緩めないまま更に問う。

「旅人がこんなところへ何の用?うちの村には盗るものなんてない。食べ物だってろくにないのに」
「何も盗もうなんて思っちゃいない」
「だったらなおさら何しに来た」
「……花を咲かせに」
「はあ?」

花だって?馬鹿にしているのか?
少女はナイフを取り出そうとした。しかしその前に、彼女の父親が慌てて家から外に出てきた。揉め事の気配を察したのだろう。父親が、身振り手振りを交えながら男と二言三言話す。父親の言葉に、男はなにやら大きく頷いた。二人が何を話していたのか、少女にはよく分からない。しかしどういうわけか、男は少女の家に客人として招かれることになったのだった。



旅の男はリョウマと名乗った。少女が住む村より遥か遠く、海を越えた先の日本という国から来たのだという。日本なんて見たことも聞いたこともない。そんな遠くからわざわざこんな辺鄙な村に来るなんて、きっとこの男はよほどの暇人か変人なのだろうと思った。

少女の村では、客人は手厚くもてなすべしという習わしがある。客人となった男に腹いっぱい食べさせるため、少女が可愛がっていた羊が一頭潰された。その日は久しぶりに豪華な食事にありつけた。少女にとっては願ってもみないごちそうだ。しかし、これでまた食料としての肉が減ってしまうことは気がかりだった。仕方ないことだとは分かっているが、大切な羊の肉なのだからもっと節約すればいいのにと思う。

食事の後、男は少女の父親と和やかに話をしていた。互いの国について説明し合っているらしい。興味を引かれない話題だったので、少女は絨毯の上で寝転がる。見上げた先に大きな箱が見えた。男が背負ってきた荷物のうちの一つだ。アンティーク風のスーツケース。男は他にもいろいろな荷物を抱えていたが、このスーツケースだけは肌身離さずに手元に置いている。
そんなに大事なものが入っているのだろうか。やはり食べ物か。キャンディやチョコレートだったら嬉しい。

少女はスーツケースをじっと見つめた。男は父親と話し込んでいる。少しくらい中身を覗いてもばちは当たらないだろう。そろそろと手を伸ばす。まだ気付かれてはいないはず。もう少し、もう少しだ。
しかし、スーツケースに触れるか触れないかのところで、大きな手がにゅっと伸びてきて少女の手首を掴んだ。

「……人のものを勝手に触るのは感心しねえな」
「う……」
男が鋭い目つきで見下ろしている。慌てて手を引っ込めようとするも、男にがっちりと掴まれているせいでびくともしない。痛いわけではないが、一切動かすことができないので、少女は「降参」の身振りをしてみせた。父親が叱りつけてくるがちっとも怖くない。

「ねえ、これの中身、食べ物?」
「食べられるものもあるが、食用が目的なわけじゃない」
「……?」

少女が眉を八の字に寄せていると、男は笑って、首に掛けていた鍵を取り出した。なんだ、最初から鍵がかかっていたんだ。少女は内心落胆する。こっそり開けようとしたのは無駄足だった。
男は丁寧な手付きで鍵をスーツケースの穴に差し込む。かちりと音を立てて蓋が開いた。

「……なにこれ。いろんな形のつぶつぶがいっぱいある。食べられないの?」
「お前は食べ物のことばっかりだな……。いいか、こいつらは花の種だ。これがスターチスで、こっちはデルフィニウム、あとこれが――」

男はあれやこれやと種の説明をするが、少女の頭には少しも内容が入ってこなかった。食べ物のこと以外にはこれっぽっちも興味が湧かなかったのだ。
そういえば、最初に会った時、目的を尋ねたら「花を咲かせに」と答えていたっけ。あれは本当のことを言っていたのか。今になって合点がいった。そして、端から男の言葉を信じる気がなかった自分を少しだけ恥じた。

「その箱、大事そうに抱えてるから、もっと凄く大事なものが入ってるのかと思ってた。お金とかお菓子とか。なのに花の種なんてつまんない」
「お前にはつまらないものでも、俺にとっては大事なものなんだよ」
「ええ……?花の種が大事なの?」
「ああ。命よりも」

命よりも――そう答えた男の目は、決してふざけているようには見えなかった。少女はぽかんと口を開けて男を見上げた。命より大事なものが花の種なんて、変なの。



その後も、男は長いこと少女の父親と話をしていた。話の多くは、村での苦しい生活についてだった。
インベーダーの脅威は去った。しかし、長い間畑が放棄されていたせいで、この村では土地が痩せ衰え、作物が十分に育たないこと。放牧と耕作を行ってはいるものの、家畜の餌どころか我々人間が食べるものすら確保が難しいということ。今は家畜を少しずつ潰して食料にしているが、いずれは乳牛や卵を生むための鶏も、食べるために殺さねばならぬであろうこと。窮状を話せば話すほど空気が重たくなっていく。
話を聞いていた男は、スーツケースの中から種の入った瓶をひとつ取り出した。

「まずは土地を肥えさせる必要があるな。こいつはレンゲソウっつう花の種だ。俺の国では昔から、緑肥……天然の肥料としてよく使われていた。草は家畜の飼料にもなるし、若芽を茹でれば食うこともできる。解熱剤として薬に使われることもある。ミツバチはこいつの花の蜜が大好物だ。とにかく、植えれば何かと役に立つだろう。俺の国と気候は異なるが、この土地でもおそらく花は咲かせられるはずだ」

絨毯の上でうつらうつらしていた少女は、「食うこともできる」という部分に勢いよく反応した。顔を上げて男の掲げた瓶を見つめた。とても小さな黒い粒がたくさん入っている。どんな花になるのか想像もつかない。

花の種は、少女の家の前にある畑に撒かれることになった。幾度となく野菜を植えたが、そのたびに土の栄養不足で失敗している、いわくつきの土地だった。
男が持ってきた種の量はそう多くはない。畑の一区画に撒いただけで、レンゲの種のストックはすぐに尽きてしまった。

「使い切っちゃっていいの?この種、命より大事なものなんでしょ?」
「いいさ。使うために持ってきたんだ。むしろ使わねえとあいつに怒られる」
「『あいつ』って?」

少女の問いかけに、男はすぐには返事をしなかった。答えを探すように口を開き、閉じる。まばたきをひとつ。それからやっと、囁くような声で答えた。

「俺の大切な人」



男はしばらくこの村に滞在することになった。花が咲くまで、レンゲ畑の面倒を見たいのだという。
男は非常によく働いた。レンゲ畑だけに留まらず、多くの家の畑仕事を手伝い、羊や牛の世話も買って出た。機械いじりの心得があるというので、壊れた農機具やトラクターの修理も請け負った。とてつもなく力持ちだったから、飼料や野菜を運ぶ時には誰よりも多くの荷物を持った。

男が村に馴染むのにそう時間はかからなかった。男は働き者であるだけでなく、とても明るい性格だった。物怖じせず、誰とでも対等に接する。他の家に呼ばれて行ったと思えば、日が暮れる頃にはそこの家人とすっかり仲良くなって帰ってくる。家長に気に入られて、朝まで酒を酌み交わしてくることもしばしばだった。
もちろん、少女も男にすっかり懐いていた。二人でレンゲ畑の様子を見に行くのが毎日の日課だ。

男が村に来てからというもの、村はにわかに活気づき、月日はあっという間に過ぎていった。夏の終わりに種を撒いてから、半年近い時間が流れた。レンゲは秋に芽吹き、冬を越して春に花を咲かせる越年草なのだそうだ。痩せた土地でも育つ強い植物だが、冬の間でも水遣りを欠かしてはいけないという。
今日も、男と少女は二人で連れ立ってレンゲ畑へと向かった。家の前の畑なので、ドアを開ければすぐそこだ。

「あっ!リョウマ、これってつぼみでしょ!もうすぐ咲きそうじゃない!?」
「そうだな。明日か明後日か……それくらいには咲くんじゃねえか」
「うわあ~楽しみ!おひたしでしょ、油で炒めるのもいいよね、あと蜂蜜も取れるし……」
「ほんとお前はそればっか」

男は白い歯を見せて笑った。なんて爽やかな人だろうと思う。
けれど少女は、彼が時折さみしそうな顔をすることを知っている。伸びやかに育つレンゲを見ながら、小さな声で誰かの名前を呼んでいることも。遠い目をして空を見上げることも。夜になると、一人の部屋で静かに泣いていることだって知っている。ドアの隙間から、肩を震わせている姿を見てしまったから。薄い壁越しに嗚咽まじりの声を聞いたのは一度だけではなかった。

いつも明るく振る舞っているが、その実、男の心には深い悲しみが根差している。
少女は、男の話の中に時折出てくる「あいつ」という人が、その悲しみの根本にいるのだろうと考える。あいつ。リョウマの大切な人。そしてきっと、もうこの世界にはいない人。
少女は男の横顔を見上げた。夕陽が赤々とその頬を照らしている。

「ねえ、リョウマ」
「ん?」
「この花が咲いたら、リョウマの大切な人は喜んでくれるかな?」
その人のことを話す時、彼は決まって少し目を細める。さみしそうだといつも思う。
「そうだな。喜んでくれたらいい」

男は茜色に染まる空を見上げた。遠く遠く、遙かな場所。雲を越え大気を抜け、真空すら通り過ぎた先、遠い宇宙の果てまで。懐かしむような、慈しむような遠い目で、彼はここにはいない誰かを探していた。



――夢を見ている。
誰かの夢を覗き見しているような感覚。そうだ、夢の夢を見ているのだ。知らないけれど、知っている。その人が誰で、どんな気持ちでいるのかも、まるで自分のことのように分かってしまう。深い深い、悲しみと優しさの夢だ。




少年を抱きかかえ、足を引きずるようにしながら、男はやっとその里山へと辿り着いた。冬はもうすぐ終わろうというのに、空気はまだ刺すように冷たい。腕の中にいる少年が凍えてしまわぬようにと布をかけ直してやる。
本来ならこんな場所まで連れ出すべきではなかった。そうでなくても、もう――頭の中に浮かんだ言葉を振り払って、男は唇を強く噛む。花が咲く場所に行きたいというのが少年の願いだった。叶えてやりたい。自分にできることならどんなことでも。

目の前には見渡す限りのレンゲ畑が広がっていた。赤紫色の小さな花が風に吹かれ、まるで波のように揺れている。
「ゴウ。……なあ、ゴウ、見えるか。レンゲの花だ」
男の声に反応して、少年の目がかすかに開いた。首を動かすような素振りを見せるが、視線はレンゲ畑まで届かない。霞む視界で捉えるには、その花は淡く小さすぎたのだ。代わりに男が花を摘み、顔の前に近付けてやる。
ふと、少年の唇が和らいだように思えた。唇がゆるやかに弧を描く。男の腕の中で、少年が微笑んでいる。

男の口元が震えた。唇を噛み締めていられなくなって、半開きになった口から切れ切れの息が漏れる。呼吸がうまくできなかった。震えはあっという間に全身へと広がり、男は体全体をわななかせた。
少年の頬に、あたたかい雨があとからあとから落ちてくる。大粒の雨がとめどなく降り注いで少年の頬を濡らしていく。少しでもその顔を目に焼き付けたいと思うのに、涙をどうやって止めればいいのか分からない。顔をくしゃくしゃにして男は泣き続けた。

「駄目だ……いくな、ゴウ……俺を一人にしないでくれ……」
その時が近いということを、思い知らされたのだ。どんなに拒絶しようが、見て見ぬふりをしようが、その時は必ず来る。確かな足取りですぐそばへと迫っている。もうどうすることもできないのだと本能で悟ってしまった。だから涙が止まらない。

「……竜馬」
囁くような声が、男の名を呼んだ。男は弾かれたように顔を上げ、何度も瞬きをして声の主を見る。少年が男をまっすぐに見上げていた。澄み切った目だ。
目が合ったと感じたのはひどく久しぶりだった。もう長いこと、少年はぼんやりと中空を眺めているばかりだったから。今は確かに視線と視線が重なっている。

その手がゆっくりと伸びてきて、男の頬に触れた。冷たい指先に熱い涙が伝う。ああ、この指だ、と男は思った。
少年は花を愛した。自然の中に咲く花も、人の手で育てられた温室の花も区別なく。すべての花の命を平等に愛した。ただ、竜馬が少年のために持ってきた花には、とりわけ優しい目を向けていた。花弁を散らしてしまわぬよう、形を崩してしまわぬよう、ゆっくりと花に触れる。竜馬の頬を撫でる指先は、その時の優しさによく似ていた。

「大丈夫だ。ひとりじゃない」
はっきりとした声だった。口元に耳を近付けてやらなくてもよく聞こえた。
少年は一度として嘘をついたことがなかった。確証のないことは言わないし、叶えられない約束はしない。だから彼の言う「大丈夫」は、気休めや慰めではなく、ましてや魔法の言葉でもない。心の底から本当に大丈夫なのだと信じていて、ひと欠片の疑いもないから言ったのだ。

「この命が終わっても、花はまた咲く。すべて続いて、つながっていく。だから大丈夫だ。……オレは、そこにいるから」

水を遣る誰かがいる限り、花の命は途切れない。いや、人の手がなくても花は自然に咲くだろう。風に乗って種が運ばれ、時には固いアスファルトすら突き破り、知らない土地でもいつの間にか芽吹くのだ。すべてはそうやって続いていく。花も、人も、この世界も。

男は震える手で、少年にレンゲの花を一輪手渡してやった。少年は瞬きをした。冬の寒さに耐え、陽の光を浴びた花。淡く小さい命だが、そこに確かに生きている。
「……きれいだ」
小さく笑った。それが最後だった。柔らかな風が、ひとつの命を運び去っていった。あとに聞こえるのは、かすかな山鳥のさえずりと、言葉にならない嗚咽まじりの声だけだった。



少女ははっと目を覚ました。瞬きと共に、目尻から涙が一筋伝い落ちていった。ベッドの上で天井を見上げる。
――なにか、とても悲しい夢を見ていたような気がする。悲しくて、優しくて、きれいな夢。どんな内容だったかはもう頭から抜け落ちてしまったけれど。
ゆっくり起き上がると、何かがぽとりと枕元に落ちた。赤紫色の花が一輪、手折られたばかりのような状態でそこにある。「あ、」と少女は声を上げた。レンゲの花だ。この花をまだ見たことがないはずなのに、知っている。

「そうだ、お花!」
少女はパジャマ姿のままベッドから飛び降りた。弾丸のような勢いで家の外へ出る。
扉を開けた先には、一面のレンゲ畑が広がっていた。見渡す限り花、花、花。赤紫色の花の海だった。葉の先についた朝露が、陽の光を反射してきらきらと輝いている。息を止めてその美しい景色に見惚れた。

あれ、わたし、夢の続きを見てるんだっけ。
ふわふわした夢見心地の中、ふと疑問が浮かび上がる。少女が男と一緒に種を撒いたのは、畑の一区画にだけだった。あそこからこんな一面の花畑になるはずはない。ありえないことが確かに起きている。まるで夢と現実が重なり合ったような景色だ。しかし、頬をつねって確かめようとは思わなかった。この美しさが消えてしまうのはあまりにも勿体ない。

ふと、少女は花畑の奥に男の姿を見留めた。少女よりも先に起きていたらしい。リョウマ、と声をかけようとして、やめる。
男の隣に、ひとりの少年が立っていた。
リョウマの言う「あいつ」で、リョウマの大切な人で、もうこの世界にはいない人――そのはずだった。しかし、少年は今、目の前にいる。レンゲの花に囲まれながら。夢で見た姿と、目の前の少年の背中が重なって溶けた。

――ゴウ。
心の中だけで呼んでみる。夢で男が繰り返し呼んでいた名前だ。すると少年はゆっくりとこちらを振り返った。視線が繋がる。やはり、夢で見たのと同じ、澄み切った目をしていた。とてもきれいな人だと思った。

――そっか。あなたは「そこ」にいるのね。

確かめるように呟くと、少年は柔らかく微笑んだ。春の木漏れ日に似た笑みだった。レンゲの花を咲かせ、少年はこの村に春を届けに来たのだ。
眩しい朝の光の中に。咲き誇る美しい花々の中に。頬を撫でる風の中に。一人佇む男の隣に。その人は確かに、いる。目には見えなくても、声は聞こえなくても、手と手が触れ合わなくても。きっとそこにいる。優しく微笑みながら、ずっと。



「ねえリョウマ、本当に行っちゃうの?もうちょっとここにいちゃダメ?まだお花咲いてるよ?」
「何度も言ったろ。俺はまだやることがあるんだ。……ほら、お願いだから離せって」
「やーーだーー!!」

少女は喚きながら荷物にしがみついた。同じようなやり取りを今日はもう何度も繰り返している。男は溜息をつき、少女ごと荷物を引っ張り上げた。男の腕力の前では、少女ごときが全体重をかけても紙切れほどの違いしかない。少女はなおも往生際悪くずるずると引きずられ続けた。

レンゲの花が咲いてから三日が経っていた。開花後、男は少女の父親にこれからのことを丁寧に説明した。種の採集の仕方、緑肥にするための土の耕し方、これから植える野菜のことも。毎年花を咲かせ種を増やしていけば、十年先にはきっと一面のレンゲ畑が見られることだろう、と男は語った。夢で見たあの景色がいつか現実になるのだ。少女は胸を高鳴らせたが、楽しみな気持ちよりも寂しさの方が勝った。レンゲの花が咲いたということは、男に別れを告げなければならないということでもあるからだ。
荷物ごと引きずられて、とうとう扉の前まで来てしまった。少女は名残惜しそうに男を見上げた。

「リョウマはさ、またお花を咲かせに行くの?」
「ああ」
「それがあの人との約束だから?」
「……ああ」

男は深く頷いた。言葉では何も言われていない。ただ花の種を託されただけだ。どう使うかは男が自分の意志で決めた。まるで呪いのような祈りだと思ったこともある。しかしそれが「約束」という美しい名で呼ばれたことを、男は穏やかな心で受け止めた。

男の顔を見つめると、少女は黙って手を離した。約束なら仕方ない。だって見てしまったのだ。花を咲かせたその先に、あの人が微笑む美しい景色を。
またね、と涙まじりの声で呟く。男は少女の頭を優しく撫でた。花を育てる大きな手だった。



レンゲ畑の中を男は歩いていく。少女はその背中が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。
どうか、どうか、彼の進む道に、いつも花の香りがありますように。彼が花を咲かせるたび、あの人の微笑みと出会うことができますように。そう願わずにはいられなかった。

男はこれからも世界中に花を咲かせ続けるだろう。いつか、遠い宇宙の果てからも、花に覆われた地球が見えるまで。






2022/07/28

BGM:笑って咲いて/上北健

「笑え、笑え。そこはまだ終わりではない。憎しみも怒りも、生むことはない。
笑え、笑え。その時残った種は、いつの日にか花を咲かせるでしょう。」


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