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「おいしい」は難しい(竜號)

自分には「おいしい」が分からない。――少なくともゴウ自身はそう思っている。

そもそも彼は生まれの時点で「ふつう」の人間とは異なる特徴を持っていた。だからだろうか、エネルギー供給源として食事という行為は優先度が低い。もちろん食べ物を一切必要としていないわけではないが、彼にとってはゲッター線を浴びることの方がよほど重要で、食事は補助的な役割でしかないのだ。

とはいえ味覚が備わっていないわけではない。辛いとか甘いとか、酸っぱい、塩辛い、苦い、そういった味は分かる。ただ、それらを「おいしい」と感じる機能だけは欠落している。
「おいしい」は人によって違う。甘いチョコレートを齧って頬を緩ませる人がいれば、眉をしかめて代わりにコーヒーを要求する人もいる。では自分はどうなのか、と考えたとき、自分には「好き」も「嫌い」も存在しないことに気が付いた。「おいしい」を感じなければ好きにも嫌いにもなりようがないのだった。

(脂と砂糖が入っているものは「おいしい」。苦味が強すぎるものは「おいしくない」。)

ゴウは周囲の人々の反応を見て、一般的においしいと呼ばれるものを学習することに努めた。みんなが「おいしい」と言えばきっとそれはおいしいのだろう。周りに合わせて同じ反応をすれば、人々は共感されていると思って笑顔になる。自分のことを好いてくれる。それは彼が精一杯の努力で習得した社交性だった。




しかし、相手が喜ぶだろうと思っての行動が裏目に出ることもある。
あれは作戦行動中の出来事だ。長期に渡る戦闘で補給物資がなかなか届かず、粗末なレーションしか提供されない時があった。薄味のスープに、もそもそとした食感の硬いビスケットが二枚。

「こんなんじゃ力も出ねえよ~」
か細い声でガイが不満を漏らすと、「食べられるものが貰えるだけありがたいと思いなさいよ」とケイが棘のある声で言う。彼女とて不満がないわけではない。だが自分たちが文句を言える立場にないことはよく分かっているから、今は空腹に耐えるしかないのだ。

「せめてあと一枚増やしてくれたっていいだろ……」
「あたしだってそう思うけどさ」
二人は揃って板切れのようなビスケットを指で摘んだ。疲労が蓄積した体にこれでは全然足りない、と顔に書いてある。――ならば、とゴウは思った。

「よかったら俺のを食べるといい」
ほら、と差し出した二枚のビスケットを、ガイとケイは受け取らなかった。それどころか目を丸くしてゴウを凝視した。……もっと諸手を挙げて喜ばれると思っていたのに。想定していた反応と違う。ゴウは目を瞬かせて二人を見つめ返した。

「え……?くれるの?二枚とも?」
「ああ。もっと食べたいんだろう?」
「そりゃそうだけど……でもそれだとゴウが食べる分がなくなっちゃうじゃん……」
「俺は大丈夫だ。食べなくても作戦行動に支障はない」
「お前が大丈夫でも俺らは大丈夫じゃないんだよ!気持ち的に!」
「気持ち的に?」

全く意味が分からなかった。目の前の二人は今も空腹で腹の虫を鳴らしているのに、ゴウが差し出したビスケットはいらないと言う。こちらは食べなくても本当に平気なのに、それは駄目だと頑なに受け入れない。
「…………」
行き場のない手を彷徨わせていると、ケイが「じゃあ一枚だけ貰うから!ねっ!」と慌てて付け加えた。結局、ゴウが差し出したビスケットは、一枚を半分にして分け合われることになった。一枚も二枚も大きな変わりはないはずだ。一枚がよくて二枚は駄目な理由が分からない。

「お前が俺たちに何かあげようとしてくれんのは嬉しいけどさ、お前のものが全部なくなっちまうのは心配なんだよ」
ガイはそう言って半分だけのビスケットを齧る。ゴウは手元に残った一枚のビスケットに目を落とす。

(何も食べないのは、「おかしい」「不自然」。全部あげてしまうのも「よくない」。)




別の日。
軍関係者が利用する食堂では、提示されたメニューの中から好きなものを自由に選べるようになっている。その「好きなもの」という一言にゴウは首を傾げてしまうのだった。二十はある品目の中からどれを選べばいいのか。
ケイやガイと一緒の時は、二人が選んだものに自分も倣えばよかった。しかし一人で食堂に来ると話は別で、空のプレートを持ったまま立ち尽くしてしまうことがしばしばあった。そういう時は結局いつも「Aセット」と書かれたものを頼む。メニューの一番上にあるからという理由で。

ご飯と唐揚げとサラダに味噌汁。Aセットは常にそれだ。
「ゴウ、食堂に来る時はいつもそれ頼んでないか?」
黙々と一人で食べていると、弁慶が隣に座ってきた。たまに食事の時間が被ることがある。弁慶はいつも人に囲まれているが、その日は珍しく一人だった。

「好きなんだな、唐揚げ」
「いや。別に好きなわけじゃない」
「好きでもないのに食べ続けて、よく飽きないな」
「……ふつうは、飽きるのか?」
ゴウが問い返すと、弁慶は驚いた顔をして固まった。――「あの時」のケイやガイと同じ反応だった。困惑と動揺。不意を突かれた顔。自分はまた「失敗」したのだと思った。

(同じものばかり食べていると不審がられる。適宜食べるものを変えなくてはならない。それが「ふつう」。)

「お前が飽きていないなら別にいいんだが……」
考え込むゴウの横で、弁慶はなんということはないと言うように笑う。
「まあそうだな、こだわりが無くてそうしてるんなら、次からは日替わりセットを頼んでみたらどうだ。選ぶ労力を消費せずに毎日違うものが食べられる。俺も面倒な時は日替わり一択だ」
な?と言って、弁慶はゴウに目配せをする。ゴウは何度も瞬きを繰り返した。

(何を選んだらいいか分からない時は、日替わりを選ぶ。弁慶もそうしている。)

安堵に似た気持ちが胸の奥に広がった。「おいしい」が分からず、「好き」も「嫌い」も選べない彼にとって、その提案は天啓にも似ていた。これからは食堂で立ち尽くさなくても済みそうだ。




――「おいしい」は、難しい。
何をもっておいしいと判断するのかは人それぞれで、味の感じ方も人によって違う。自分だけの「おいしい」の基準を持たないゴウは、他人と比較することもできない。それが自分の性質なのだから受け入れるしかないと思う一方で、ほんの少しのさみしさも感じる。
膝を抱えたまま考え事をしていたら、すっかり夜が更けてしまった。月の傾き方からしておそらく深夜一時過ぎ。よい子は寝る時間と教えられている。

水でも飲もうと宿舎の廊下を歩いていたら、目の前に煌々と光る部屋を見つけた。給湯室だ。昼間は誰でも自由に利用することができて、湯を沸かしてコーヒーや茶を飲んだりしている様子を見たことがある。確か夜間は施錠されているはずだ。……泥棒、だろうか。軍事施設へ泥棒に入る命知らずがいればの話だが。

ゴウは気配を殺して給湯室に近付く。その部屋にいた人物を見とめて思わず声を上げそうになるのを、すんでのところで耐えた。声を掛けても問題のない相手だったが、もう少し様子を窺いたいという気持ちになったのだ。
左右に揺れる広い背中。鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だ。湯気を立ち上らせる「それ」に夢中で、ゴウが忍び足で近寄っているのにも気付かない。

「竜馬」
「――おぁっ!?」
聞いたことのない声を上げて竜馬が跳び上がった。その拍子に鍋が揺れたので、ゴウはすかさず取手を持って安定させる。熱い。

「……な……にすんだお前……びっくりしただろうが……」
「すまない。そこまで驚かれるとは思わなかった。……何を茹でているんだ?麺類のようだが」
「気にするところそこかよ。もっとねえのか、ド深夜に何やってんだとか鍵はどうしたとか」
「訊かれたいのか?」
「いや、困る」

自分で言っておきながら竜馬が焦った表情をするのを見て、ゴウの口元に自然と笑みが浮かんだ。
「それなら訊かない」

鍋に視線を戻すと、煮える湯の中で薄い黄色の麺が踊っていた。この色と細さは、おそらく。
「ラーメンか」
「正解。禁断の真夜中ラーメンだ」
心なしか竜馬は得意げだ。ふふん、と鼻を鳴らしながら、空になった袋をゴウに渡してくる。袋の裏側にはラーメンの作り方が載っていた。沸騰した湯に麺を入れて三分、粉末スープを湯で溶かしてそこに麺を入れるだけ。ゴウは鍋と竜馬を交互に見比べた。

「……何が『禁断』なんだ?確かに、ここを夜間に利用することは禁じられているが……」
「真夜中にアッツアツのラーメンを食べることが禁断そのものだろ。罪の味だぜ」
「意味が分からない」
「ならその舌で味わえよ、罪の味を。こうなったらお前も共犯だ」
「……意味が分からない」
「お前はいっつもそれだな。いいか、単に夜食を食うだけじゃ駄目なんだ。そんでカップラーメンでも駄目だ。わざわざ深夜にお湯沸かして袋麺を茹でるっつう行為がだな……」
「……それより竜馬、時間はいいのか。袋には三分と書いてある」
「ああッ!?」

竜馬がまた聞いたことのない声を上げた。慌ててガスコンロのつまみを回す。鍋が揺れる。ゴウがすかさず鍋の取手を持つ。熱い。「……っぶねえ……」と竜馬が息を吐く。つい数分前にも似たような流れがあったのを思い出し、ゴウは取手を握り締めながら首を傾げた。竜馬がゴウの顔を覗き込んで唇をへの字に曲げる。

「お前それ素手で持って平気なのかよ」
「問題ない。数日で治る」
「いやしっかり火傷してんじゃねえか!」

竜馬が間髪入れずに叫んだ。ここが深夜の給湯室だということもお構いなしだった。そんな大声を上げたら誰かに気付かれてしまうのではないかとゴウは心配になるが、今の竜馬には言っても無駄だ。
竜馬はゴウの手首をむんずと掴むと、流しに持っていて水道の水をぶちまけた。栓は全開。赤くなったゴウの手のひらを流水が流れ落ちていく。
「竜馬、麺が伸びる」
「いいから黙ってろ」
竜馬には有無を言わさない雰囲気があった。つられてゴウも無言になる。ひりひりと痛み出してきた手に水の冷たさが気持ちいい。茹で上がったままの麺は、鍋の中でゆらゆら揺れている。


大したことのない火傷を竜馬が放っておいてはくれなかったため、代わりに放置されたラーメンはぶよぶよのどろんどろんになっていた。作り直そうにも、竜馬の袋麺の在庫はこれが最後だったという。冷め始めていた鍋を再び温めたので、麺のぶよぶよ具合に拍車が掛かってしまった。
「こうなっちまったもんは仕方ねえ、食うぞ」
「…………」
ゴウは黙るしかなかった。「すまない」と言おうとすると竜馬が睨んでくるからだ。ゴウの目の前には、竜馬の丼よりも小さい器が置かれていた。茶色く透き通ったスープと、伸びた麺が湯気を立てている。麺の他に具材は何もない。シンプルすぎる真夜中のラーメンだった。

竜馬の「いただきます」にゴウも続く。一口食べると、形容し難い食感が口の中に広がった。例えるなら靴紐、あるいは噛みすぎたガム。スープはかろうじて元の風味を保っている気がするが、伸び切った麺の食感が全てを台無しにしていた。食事に頓着がないゴウですら分かる。これは十人中十人が「おいしくない」と感じる代物だろう、と。

正面に座る竜馬をちらりと見る。竜馬も度し難い表情をしていた。深夜のラーメンの罪深さについて熱心に説明しようとしていた姿とは程遠い。
しかし竜馬は箸を止めなかった。勢いよく麺を啜り、スープを飲む。はっとしてゴウも小鉢の中身を食べることに専念した。その間、約数分。
スープまで残さず飲み干した竜馬が顔を上げる。重い溜息を吐いた後、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。ゴウもそれに倣う。

「……どうだ、ゴウ。これが罪の味だぜ」

まるで負け惜しみのようにそう言うので、ゴウは思わず顔を背けた。手で押さえた口元から堪えきれない笑い声が漏れる。
「おい笑うなって」
「いや……うん……すまない……」
「絶対すまないとか思ってねえ顔だろそれはよ」
不思議だ。竜馬の前では自然と笑みがこぼれ落ちてくる。真夜中に二人、麺が伸び切ったラーメンを食べるこの時間、虚無の味を前にして無言になるこの空気。それら全てを楽しいと思った。

(たぶん、これが俺の「おいしい」だ。)

基準となるのは味ではない。好き嫌いでもない。人によって「おいしい」と感じるものが違うなら、自分にとっての「おいしい」はこれでいい。
空っぽになった小鉢には、目には見えない満足感がいっぱいに満ちていた。




2022/10/16