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夏を分解する指(竜號)

海に行くと決まってからのゴウの行動力は凄まじいものがあった。海でできる遊びをリストアップすることから始まり、必要な道具を集めて吟味し、砂像の作り方まで熱心に調べ上げていた。表情には出さないがよほど待ちきれないのだろう。毎朝、あと何日で海に行く日だと、聞いてもいないのに教えてくれる。
初めての海というのはそこまでの大イベントなのだろうか。竜馬は自分自身の記憶を掘り起こしてみるが、若者特有の愚かな経験しか思い出せなかったので溜め息をついた。ゴウはきっとそういう馬鹿なことはしない。ケイたちと純粋に海遊びを楽しもうとしている。それなら自分は大人の側として、そのささやかな楽しみを叶えてやるべきだろう。

出発の日の朝、ゴウは両手に抱えきれないほどの荷物を持ってドアの前に立っていた。大きな浮き輪(なぜかもうぱんぱんに膨らませてある)、プラスチックのスコップ、ごつい形をしたゴーグル、用途不明のバケツ等々。

「それ全部必要か」
「必要だ」
「絶対に?」
「ああ」

意思は固そうだ。ゴウがうきうきと準備に勤しむ姿を知っているので、どれかを減らせとはとても言えない。果たして全部車に載せられるだろうかと竜馬はしばらく思案しなければならなかった。
いや、それよりも。
竜馬は横目でちらりとゴウを見るが、眩しさを感じてすぐに目を逸らした。直射日光が差し込んでいるわけではない。感覚的な話だ、これは。

「……お前、その格好で行くつもりか?」
「これが海遊びの基本形のはずだが」
「まあ、うん……そうだけどよ……」

ハーフパンツ型の水着にパーカー。足元はサンダル。文句のつけようがない、模範的な海遊びスタイルだ。だがよりによってゴウがその格好をしていると何か非常にまずいことをしている気分になるのはなぜだろう。俺だけか、俺だけなのか。竜馬は自分の胸に手を当てて考えてみたが答えは見つからない。
見慣れていないだけだ、きっとそのうち慣れるし何とも思わなくなる。そう自分に言い聞かせてはみるものの、視線を落とした先にゴウの白い脚が目に入って低く唸った。

ゴウはいつも露出の少ない服装をしているからか、こうやって無防備に肌を晒されると胸がざわつく。百歩譲って肌を見せること自体は別にいい、それこそ毎晩見ているし、なんなら全身くまなく知っている。問題はそれを御天道様の下で衆目に晒すことにある。陽の光にその白い肌はあまりにも――あまりにも駄目だろう、色々と。
とりあえずゴウが着ているパーカーのファスナーを上げてやった。肌面積が減ってほんの少しだけ安心する。ゴウは口を挟まなかったが、竜馬のその行動の意味は理解できていないようだった。不思議そうに首を傾げている。

「何か問題があるのか」
個人的には問題だらけだ。しかしその理由をあけすけに話す気にはなれない。海を楽しみにしている子供を前にして、大の大人が「誰にも見せたくない」と嫉妬の感情を抱いている図は見苦しい以外の何物でもないからだ。外に続く扉を背に、竜馬は精一杯の譲歩を持ちかける。
「……それ、着たまんまじゃ駄目なのか」
たった今ファスナーを上げられたばかりのパーカーを指差す。
「これは海中での着用を想定していない服だ。着たままでは海に入れない」
「そこをなんとかだな……」
「なぜ?……オレに海に入るなと?」
ゴウの表情が曇った。大抵のことならゴウは竜馬の頼みを聞いてくれるが、受け入れられない時もある。今がそれだ。なにせ一週間以上前からずっと楽しみにしていたのだから。ゴウが少しむっとした顔をしているのを見て、竜馬は慌てて取り繕おうとした。それらしい言い訳を探す。

「海に入るなとか言いたいわけじゃねえよ、ただ、その……あれだ、日焼けとかするだろ?」
「日焼け?」
ゴウが不意を突かれたように瞬きをした。
「そうだよ、日焼けだ。お前の肌白いし、焼けたら大変なことになる」
「紫外線なら、数時間程度晒されたところで大きな健康被害は起きない」
「とか言ってると痛い目見るぜ?俺なんて昔ハメ外しすぎて変な日焼け跡ついちまって――いやそれはどうでもいい、とにかく日焼けは危ねえんだ。おとなしくパーカー着とけって」
「そういうことなら大丈夫だ。ケイに貰ったものがある」

うまい言い訳を考えたと思ったのも束の間、ゴウはひらりと竜馬の言い分を躱して、手持ちのバッグの中をがさごそ探し始めた。そして手にしたものを竜馬の目の前に突き付ける。紫とピンクのグラデーションになったチューブ型のパッケージ。表側に「SPF50+ PA++++」と呪文のような記号が書いてある。
「なんだこれ」
「日焼け止めだ。日焼けを防いでくれるものらしい。これを塗れば心配はいらないだろう?」
「お、おう……」
竜馬は挙動不審になりながら頷いた。日焼けが心配だという言い訳を使ってしまった以上、こうして対策を持ち出されては何も言い返せない。今更正直に全部話すわけにもいかない。ゴウが日焼け止めのチューブの蓋を外すのを呆然と眺めているしかなかった。

「あ」
そして案の定というべきか――ゴウが思い切りチューブを握り締めたせいで、中身が掌から溢れ出しそうなほど出てきた。加減というものを知らない。日焼け止めクリームがこぼれないように手をお椀の形にしながら、ゴウが困りきった顔で竜馬を見上げる。助けてくれという無言の視線を受けて、竜馬は深い溜め息をついた。




玄関先で立ったまま日焼け止めを塗りたくるわけにもいかない。二人は一旦部屋に戻り、ベッドの上に座った。
「手のやつはとりあえず腕にでも塗っとけ。前の方は自分でできるだろ?背中は俺が塗ってやる」
「わかった」
溢れそうになっていたクリームはゴウの両腕に消えていく。それでもまだ残っているので脚にも塗り広げた。

ゴウがパーカーを脱ぐと、白い背中があらわになって一瞬竜馬の息が止まる。毎晩のように見ているはずなのに、陽の光の下で見るとやけに背徳感が増すように思えた。クリームを手に取って触れると、ゴウの背中が微かに跳ねた。
「悪い、冷たかったか」
「……大丈夫だ」
返ってきたゴウの声はやけに小さい。それに引きずられて竜馬も息を詰めた。窓の外ではいつものように鳥が鳴いているが、この部屋の中だけは静寂が支配している。ただ日焼け止めを塗るだけだというのに、まるで儀式でも執り行うかのような空気だった。

クリーム越しに触れるゴウの皮膚はひやりと冷たい。均整の取れたしなやかな体。美しいライン。白く滑らかな肌は作り物めいているが、呼吸のたびに動く胸と背中が、それが生きている人間だということを伝えている。そうだ、今までに何度もこの手で確かめてきただろう。触れて、なぞって、時には痣になるほどきつく握り締めて。薄い皮膚は、噛み跡や鬱血痕さえ鮮やかに浮かび上がらせる。自分がつけた痕をその肌に見るたび、罪悪感と充足感が同時に湧き上がってきてたまらない気持ちになるのだ。
ああ、今この瞬間に白い首筋へ噛み付いたら、お前はどんな声を上げるだろう。どんな顔をして俺を見る?他の誰にも見せたくはない。見るのは俺だけでいい。俺だけのものだ。お前は、俺だけの……

――そこまで考えて、はっと顔を上げた。何してんだ俺は。今は朝で、これから海に行くところで、日焼け止めを塗ってやってる最中だろうが。変な気を起こしてみろ、ゴウだってさすがに怒る。あんなに海に行くのを楽しみにしてたんだから。
ああだこうだと自分に言い聞かせ、竜馬は日焼け止めを塗る作業を再開する。よこしまな考えに陥っていたのはほんの僅かな時間だったようで、ゴウが何も言ってこないのを見るに気付かれてはいないらしい。ほっと胸を撫で下ろす。自分の体が馬鹿正直に反応しかけていることには見て見ぬふりをした。ゴウが背中を向けていてくれて助かった。

色々なものを誤魔化しながら、竜馬はごくごく丁寧な手付きでゴウの背中にクリームを塗り広げた。ゆっくりと優しく。滅茶苦茶にしてやりたいという願望など最初からどこにもなかったとでもいうように。
これは作業だ。集中しろ、集中。雑念は消せ。集中集中集中……。

「竜馬」
不意にゴウが竜馬を呼んだ。さっきと同じ小さな声だった。気取られただろうか。いや、そんなはずは。
「あ?あー、悪いな、時間かかっちまった。でも背中は終わったぜ。お前ちゃんと前の方自分で塗れたか?首周りも塗っとかねえと――」
「……竜馬」
その声はやはり小さく、そして震えていた。
ゴウが振り向いた。目が合う。……熱に浮かされた目だ。ゴウがこの目をするのはどんな時か、竜馬はよく知っている。知りすぎている。昨夜もこの目で竜馬を求めてきたからだ。物欲しげな唇が小さく開いた。

「竜馬、どうすればいい……?」

ゴウは困りきった顔をしている。だがそれは先程のような、日焼け止めが手から溢れそうでどうしよう、という類のものではない。まったく別種のものだ。
冷たいと思っていた肌は、いつのまにかじわりと熱を孕んでいた。竜馬が触れている部分は他よりも熱い。気のせいなどではなかった。呼吸は浅く、漏れる吐息は湿り気を帯びていた。触れたところからゴウの心臓の鼓動が感じられる。この状況に心と身体を掻き乱されたのは、竜馬だけではないということだった。

竜馬は思わず生唾を飲み込んだ。目の前にこんなものをお出しされて耐えられる人間など存在するのか?たとえ今が陽の光がさんさんと差し込む真っ昼間で、これから海に行く約束をしているとしても。
ゴウの肩に触れた。背中が微かに震えたが、ゴウは何も抵抗しない。竜馬はゆっくりと――それはもう殊更ゆっくりと、指先と掌全体を使ってゴウの肌をなぞっていった。肩から二の腕、肘、手首、そして掌へ。指先同士が絡み合う。
「……お前はどうしたい?」
「……っ」
自分がかなり意地の悪いことを言っているという自覚はあった。俺か、海に行く約束か。どちらかを自らの意志で選ばせようというのだ。この状況では選択の余地などないと分かっていながら。案の定、ゴウはまた困り果てた顔をして、それから――竜馬の唇に自分の唇を重ねた。それが答えだった。

「ん……んん、ぅ……」
舌も熱く、湿っていた。薄い唇からくぐもった声が漏れる。竜馬はその吐息すら絡め取るように深く口付けた。ゴウが自分から求めてきたという事実に頭が蕩けそうになる。いや、既に蕩けきっているのかもしれない。今が昼だろうが夜だろうが、もうどうでもよかった。海へ行くという当初の目的すら薄れかけていく。
ゴウをゆっくりとベッドに押し倒しながら、竜馬はポケットに入れていた携帯電話の電源を落とした。集合時刻に遅れた言い訳は後でいくらでも考えればいい。今はただ、この熱を貪り尽くしていたい。そう思ったが最後、止まらなかった。午前中の予定は、日焼け止めの効果と共にシーツの上でほどけていった。




2022/07/18

★大遅刻―――!!!