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書いた小説の倉庫です

さくらのゆめ(竜號)

「さくら?」
お前が首を傾げてこちらを見た。何度か瞬きをして、手に持っていた植物図鑑のページをめくる。お前が気に入っているその本は、何度も読み返しているからか随分とくたびれている。元々が古い本だ。載っているものの中には、この十三年間で失われてしまった種も多い。
「これか。春の花なのか、綺麗だな」
開かれたページには薄紅色の花の写真が何枚もあった。ソメイヨシノヤマザクラ、ヒガンザクラ――どれも美しい日本の桜だ。俺はソメイヨシノの写真を指差した。

「こいつは春になると一斉に咲くんだ。桜の時期になるとみんな花見をする。桜の木の下でレジャーシート広げて、酒飲んでうまいもん食って、どんちゃん騒ぎの宴会だ。日本だけの文化だろうな」
「……花見なのに、花は見ないのか?主役は桜だろう」
お前が不可解そうに眉根を寄せるので、俺もそう思う、と笑って頷いた。桜が綺麗だからと理由をつけて、結局はみんなで集まって飲み食いをしたいだけなのだ。春という季節に誰も彼も心を浮つかせる。麗らかな陽気に包まれると自然と開放的になる。かつては俺もそうだった。

「懐かしいな……昔、早乙女研究所の敷地内にもでかい桜の木があってさ。春になるとぶわーっと咲いて、結構見ものだったな。その時ばっかりはみんな仕事とか全部放り投げて花見に向かうんだ。隼人がこっそり隠してたいい酒を盗み出してきて、あとミチルさんが作ってくれたでっけえ弁当箱を――」

そこまで言いかけて急に言葉に詰まった。小骨が引っかかったように、その先の言葉が喉の奥で絡まって出てこない。半開きの唇が何度か開きかけたが、ついぞ声になることはなかった。俺は諦めて口を閉ざした。
「……あー、まあ、そんな感じだ、花見ってのは。今じゃ生きてる桜を探すのも難しいだろうけどな」
だから花見もできねえと思うぜ。そう言って笑ってみせる。言葉に詰まってしまった自分を誤魔化すように。ひどくぎこちない笑いであることは自覚していた。

触れられない記憶。美しくてあたたかいもの。遠くに行ってしまって、もう戻らない。
お前は俺の横顔をじっと見つめていた。気付かれてしまっているんだろうか。俺がその記憶を思い出すことに躊躇いを感じていることを。
しばらくの沈黙のあと、お前は静かに言った。

「春になったら、桜を見に行こう」

まるで決意表明のような言葉だった。俺は目を見開いた。
「でも、もう桜の木なんて……」
「地上にも四季が戻ってきている。桜の木だって探せばきっとあるはずだ。俺は竜馬と一緒に桜を見てみたい」
「……」
俺は顔を上げてお前を見、それから空を仰いだ。見上げた先には灰色の冬空が広がっていた。厚い雲に覆われた空には春の気配などどこにも見えない。春はまだ遠い。桜の木が地上に残っている保証も無い。だがお前は桜を見たいと言う。

「……そうだな。春に、なったら」
その願いを叶えてやりたいと思った。桜の花を写真でしか知らないお前に、本物を見せてやりたい。記憶の淵に居座る後悔が、絶えず俺を責め続けるとしても。
お前も俺の隣で空を見上げた。まだ見ぬ遠い春に思いを馳せる。憧れるように。
「約束だ。必ず見に行こう。竜馬と俺と、ふたりで」
約束。その二文字に、俺は黙って頷いた。淡く揺れる瞳の奥に、薄紅色の花びらが舞っている。



ゲッターに乗って周辺地域の哨戒をしているさなか、俺は桜の群生地を見つけた。
季節はまだ冬。山の木々は息を止めたように沈黙を守っている。新芽や花の芽吹きは当分先だ。しかしそれが桜の木であることは、遙か上空から見下ろしてもよく分かった。俺は山の合間に機体を下ろし、桜の木がある場所へ駆けていった。
――こんな場所に、桜の木が残っていたのか。
思わず感嘆の息が漏れた。見渡す限り桜、桜、桜。山の中腹ほぼ全てが桜の木と言ってもいい。今は幹と枝ばかりの殺風景さだが、春になれば辺りは一面の桜の海になるだろう。きっとゴウも喜んでくれるはずだ。無意識のうちに唇の端を綻ばせてしまう。

桜並木の間をしばらく歩いていくと、ひときわ大きな老木を見つけた。両腕を広げるように枝を伸ばしている。まるでこの桜たちの主であるかのような佇まいだった。
「こりゃ立派だな……」
太い幹に触れる。俺が両腕を回してもなお届かないほどの太さだ。ごつごつとした幹の表面は、この木が生きた歳月の長さを物語っている。十三年前、ゲッター線が世界中を覆い、インベーダーが跋扈した時でも、この桜は元の形を保ったまま地上に残り続けたのだ。何百年も前からの記憶をその身に抱えながら。

早乙女研究所にあった桜の木に、どこか似ているような気がした。あれもこの桜と同じくらいの老木だった。研究所の崩壊に巻き込まれて、木はとっくの昔に消えてしまったが。
郷愁がこみ上げてくる。遠い記憶。桜の木の下で花見をしたこと。花なんてそっちのけで、みんな宴会に夢中だった。馬鹿みたいに騒いで、時には暴れて、きついお灸を据えられたのも、まるで昨日のことのように思い出せる。一度として忘れたことなどなかった。美しい記憶が遠ざかれば遠ざかるほど、それを希う気持ちは強くなっていく。

もしもあの時、重陽子爆弾投下の阻止に成功していたら。
もしもあの時、裏切りによる投獄がなかったら。
もしもあの時、あの人を失っていなかったなら。
そんな「もしも」を願わない日は、一度としてなかった。

強い風が吹いた。冷たい北風だ。思わず目を瞑った。風は俺の郷愁ごと巻き上げて、空へ。
――そしてもう一度目を開けた時、目の前に広がっていたのは満開の薄紅色だった。
「……え」
風が頬を撫でる。先程の北風とはまるで違う、ぬるく柔らかい春の風だった。

桜が、咲いていた。

花びらが舞い散る。かすかな花の香りが鼻に抜ける。固い地面は柔らかな芝生へ、厚い雲で覆われていた空は、透き通るような快晴の青に変わっていた。何もかもが先程までと違う。……違うのに、懐かしい。
「竜馬!」
俺を呼ぶ声がして振り返ると、あまりにも懐かしい顔に出会った。武蔵。巴武蔵だ。とうにいなくなったはずの友が、手を振りながらこちらに駆け寄ってくる。俺はその場に立ち竦んだまま動けなかった。

「おーい竜馬!探したぜ!ちょっとこっち来てくれよ、お前がご指名なんだ!」
「お前……お前、本当に武蔵か?」
「はあ?」

目の前で起こる出来事が信じられない。俺は震える手で友の顔に触れた。まんまるで、餅のようにふわふわしていて柔らかい頬。ぺちぺちと叩くと跳ね返ってくる弾力。俺よりだいぶ低い位置にある、丸い形の目。夢にしてはあまりにも生々しい実感がある。忘れない、忘れるはずがない。何もかも同じだった。顔の形も目蓋の厚さも、手で触れる頬の感触も。すべてが巴武蔵だ。
「なんだよ竜馬、鳩が豆鉄砲を食ったみてえな顔しやがって。変なもんでも食ったのか?」
「だって……だって、お前はもう、」
お前はもう、死んだじゃないか。
言いかけた言葉は声にならなかった。生きている本人を目の前にしてそんなことを言えるわけがない。

武蔵は訝るように俺の顔を覗き込んだが、「まあいいや!とにかく来てくれ!」と手首を掴んできた。武蔵に引きずられるようにして俺は桜の木の下を離れる。見上げると、目の前には早乙女研究所が高くそびえ立っていた。記憶の中にある研究所よりも大きく、堅牢なつくりに変わっている。研究所内も、俺がよく見知った場所と初めて見る場所が混在していた。
じきに、醤油と出し汁のいい匂いが廊下に漂ってきた。武蔵はその匂いがする方へ一直線に向かっていく。まさか。俺はこれから自分を待ち受けるものを予感して慄いた。足がもつれる。

「ミチルさん!竜馬のやつを連れてきましたよ!」
「あら、ありがとう!ねえ竜馬くん、ちょうどお弁当のおかずが仕上がりそうなの!よかったら試食してみてくれない?」

満面の笑みが俺を出迎えた。早乙女ミチル。遠い日に置き去りにした彼女が、屈託なく笑っている。
「ミチルさん……」
武蔵が生きているのなら、彼女が生きていてもおかしくない。だが俺には目の前の現実を受け止めきることなどできるはずがなかった。二歩、三歩とよろめいて、壁に背中をぶつける。
「なあに?おばけでも見るような顔をして。それよりほら、食べてみて!この出汁巻き卵、自信作なの!」
差し出された出汁巻き卵は、作りたてなのだろう、ほかほかと湯気を立てている。とても美味しそうに見えた。いや、実際美味しいのだ。ミチルんさんの作る料理は、どんなものだって。この舌で何度も味わってきた俺がそれを一番よく知っている。だが今はとてもじゃないがゆっくりと味わう気にはなれなかった。

「いや、俺は……」
「もしかして食欲がないの?竜馬くんにしては珍しいわね、風邪でもひいたのかしら?顔色もよくないし……」
「心配ご無用ですよミチルさん!竜馬に限って風邪なんてひくワケがねえ!味見なら俺が代わりにしますんで!ほら竜馬、シケた面しやがるやつは引っ込んでな!」

俺の肩を押し退けて、武蔵が代わりに前に出る。喜んでだし巻き卵にかぶりつき、「ん~うまい!もう一個ください!」と調子づいている。
「あらあら、食いしん坊さんなところは相変わらずね!」
嗜めるような口調でも、ミチルさんは嬉しげな様子だった。手料理を腹いっぱい食べてもらうことが彼女の喜びなのだ。ずっと昔からそうだった。俺は壁に背を預けたまま、二人のやり取りを黙って見ていた。目の前で起こっている出来事なのに、まるで自分と二人の間が透明な板で区切られているような錯覚を覚えた。壁掛けの時計はチクタクと正確に時を刻み続けている。時を。

はっとして、俺は二人をもう一度食い入るように見つめた。何もかも同じだと思っていた。だが俺の記憶と少しずつ違うものがある。研究所の建物も、そして、武蔵とミチルさんも。
「なあ武蔵……お前、なんか老けてねえか?ミチルさんも」
恐る恐る問えば、「なんじゃそら」「まあ!」と素っ頓狂な声が返ってきた。
「お前、俺はともかく、ミチルさんに対してなんてことを!」
「竜馬くん、その発言、女性に対してちょっと失礼よ!私達だってもう四十代だもの、昔と同じフレッシュさというわけにはいかないわ。それに竜馬くんだって人のこと言えないでしょう。ちゃんと鏡を見てから言うことね!」
ほら!と指さされた先には鏡がある。俺はよろめきながら鏡に向かう。

武蔵とミチルさんも、本人そのものでありながら、俺の記憶との差異があった。偽物というわけではない。時の流れが止まったはずの彼らに、歳月が確かに流れているのを感じた。そしてそれは――俺自身にも同じことだった。
鏡に映る自分は、随分と老けて見えた。いや、「見えた」のではなく実際に老けているのだ。ミチルさんの言うように四十代の姿へと。十三年分の空白を埋めるように、歳月が皺となって刻まれている。
「ああ……」
俺はたまらず駆け出していた。武蔵が呼び止める声も無視して建物を飛び出した。頭がどうにかなりそうだった。

足は無意識のうちにあの桜の木へと向いていた。桜だ。あの桜の木のもとへ行けば、何かが分かるかもしれない。そんな一縷の望みをかけて辿り着いた先には、隼人と弁慶が立っていた。大きなブルーシートを二人で抱えている。
「ああ、竜馬か。ちょうどよかった、シートを敷くのを手伝ってくれ」
「隼人!これはどういうことだ!」
俺は一目散に隼人めがけて走り、その胸ぐらを掴み上げた。
「武蔵もミチルさんも、なんで生きてる!?あの事故は起こってないのか!?重陽子爆弾は!?戦いはどうなったんだ!インベーダーは!?俺に分かるように説明しろ!!」

凄まじい剣幕で迫るも、対する隼人は困惑の表情を浮かべて俺をじっと見つめるばかりだった。
「事故だの爆弾だの、何を訳の分からんことを言っているんだお前は。頭でも打ったのか?インベーダーなんて、俺たちが月で戦ってとっくの昔に殲滅しただろう。あれから十六年、奴らの姿は一度も確認されていない。まだ戦っているつもりなら目を覚ませ」
「そんな、馬鹿なことが……」
隼人の顔には傷がなかった。ここにいるのはタワーの司令官ではなく、早乙女研究所の一構成員としての神隼人だ。
どうなっているんだ。死んだはずの人が生きていて、流れるはずのない時が流れている。終わらない戦いがとっくに終わっている。こんな都合のいい、夢みたいな世界があっていいのか。
目を覚ますのはお前らの方だろう、と言いそうになって、俺は口を噤んだ。ゆっくりと隼人の胸ぐらから手を放す。おかしいのは俺の方なのかもしれない。みんな当たり前にこの世界に溶け込んでいる。違和感を感じて錯乱しているのは俺だけだった。

俺の焦燥を見かねて、弁慶が声をかける。
「よく分からんが、竜馬、ぼうっとしてないで手伝ってくれ」
「……手伝うって、何を」
「花見の準備に決まってるだろう!」
そう言って弁慶は俺の胸にブルーシートの端を押し付けた。ここを持てと言うことらしい。促されるままにシートを桜の木の下に広げた。そうしているうちにも桜の花びらがシートの上にひらりひらりと落ちていく。隼人が慣れた手付きでペグを地面に打ち付けていった。そこに早乙女研究所の職員もぞろぞろと集まって、花見会場はあっという間に大勢の人で埋め尽くされた。賑やかな喧騒に包まれる。

「みんな、お弁当できたわよ~!」
ミチルさんと武蔵が、巨大な重箱をいくつも抱えてやって来た。会場から歓声が上がる。重箱には色とりどりのおかずが詰まっていて、みんな嬉しそうにそれを頬張った。酒も進む。
俺はその場に立ち尽くしたまま、ぼんやりと花見の席を見回した。研究所の職員にも、見知った顔がいくつもある。みんな死んだはずの者ばかりだ。誰もが楽しそうに笑っている。

「竜馬さーん!遅くなってごめん、父さん連れてきたよ!」
ひときわ明るい声が俺を呼んだ。短髪の少女が、白衣に下駄の老人の手を引いてこちらに歩いてくる。少女はショートパンツを履いて、長くすらりとした脚を惜しげもなく晒している。
「ケイ、それに……ジジイまで」
「爺呼ばわりするでない。まだまだ現役だ」
早乙女博士は相変わらずの物言いだったが、その声音は毒が抜けたように穏やかだった。鋭い目つきの中に柔らかい光がある。世界のすべてを憎み、滅ぼそうとしたあの狂気はどこにも感じられない。
俺は呆然とした表情で二人を出迎えるしかなかった。何もかも信じられない。
「竜馬さん、ケイって何?もしかしてあたしのこと?」
少女が不思議そうに首を傾げた。ああ、と俺は声にならない吐息を漏らした。この世界では、少女は「ケイ」を名乗る必要などないのだ。早乙女元気という名のまま、少女は美しく成長した。心を閉ざすこともなく、父親を恨むこともなく、明るく健やかに生きている。早乙女博士と共に歩く姿は、まさに父と娘のあるべき姿だった。

桜が、咲いている。

もう二度と戻ってこない人たちがそこにいる。消えない傷跡は最初から存在していない。誰も取り残されることなく、優しい歳月が同じように積み重なっていく。
果てのないように見えた戦いは知らぬ間に終わっていて、あの忌まわしい出来事は起きてすらいなくて、世界は滅びもせずに美しいままだった。

「ほら、遠慮せずに食べて。この日のためにたくさんおかずを作っておいたのよ。みんなが楽しめるようにって」
大きな重箱を抱えて、彼女が微笑む。
「竜馬!今日だけは特別に昼間から飲んでもいいとさ!早くこっちに来いよ!」
既に真っ赤な顔をして、友が大口を開けて笑う。
「天気は快晴、気温二十四度、風は無し。最高の花見日和だな」
いつもは馴れ合いを避けるあいつですら、口元に笑みを湛えている。
「竜馬!」
懐かしい声たちが、俺を呼ぶ。

滅びかけた世界、灰色の空、死んでいった人々、地獄にも似た戦場、憎しみと悲しみの災禍――そんな世界の方こそ、夢だったんじゃないか。今ここにあるものが現実で、あれは悪い夢。胡蝶の夢という例えもある。長く苦しみ続けたように思えたが、その長い夢からやっと覚めたのだ。
願い続けた風景が目の前に広がっている。疑問も、違和感も、緩やかにほどけていった。心が軽くなる。ここがいい。ここにいたい。
「竜馬、いつまでも突っ立ってないで、旨い酒でも飲んで元気出せ!」
武蔵に背中を押されて、俺はようやくブルーシートの上に腰を下ろした。並々と酒の注がれた杯が差し出され、頷きながら受け取った。きっと今なら気持ちよく酔えると思った。

酒の杯を飲み干そうとしたその時、頭上からひらひらと桜の花びらが降ってきた。俺の持っていた杯の上に、花びらが一枚、音もなく舞い落ちる。
風もないのに不思議なものだ。桜の木を見上げた。咲き誇る満開の桜。視界を埋め尽くす薄紅色。こんなに美しく咲いているのに、人々は宴会に夢中で花など気にも留めない。

『……花見なのに、花は見ないのか?』

ふと、そんな声を思い出した。お前は不可解そうに首を傾げて、もっともらしい疑問を口にする。
『主役は桜だろう』
そう言って、お前は――お前、は?

俺ははっとして勢いよく立ち上がった。その拍子に、杯から酒が零れ落ちてブルーシートを濡らす。しかし俺はそんなことに構わずその場に立ち尽くした。宴会の席を見回す。見知った顔ばかりの中、探すべき相手はどこにも見当たらなかった。
とうに失われた景色が、訪れるはずのない未来がここにある。こんな日々をずっと願っていた。夢のように美しく、泣きたくなるほど優しい世界だ。
なのに、お前だけが、いない。

何故だ、いや、当たり前だ。お前はこの世界にはいるはずのない存在だからだ。あの人が死んで、悲しみと憎しみが満ちて、世界がどんどん狂っていく中でお前は生まれ落ちた。人の手によって作り出された命だ。平和で美しい、この「正しい」世界ではそもそも生まれてこなかった、生まれない方がよかった存在だ。お前の不在こそがこの世界のあるべき姿だった。
――でも。それでも。俺はお前に会いたいと思う。

「……竜馬くん、泣いてるの?」
ミチルさんが心配そうな顔で声をかけてくる。俺はまともに応えることができない。
分からなかった。思い出せなかった。この世界で、お前の記憶は異物でしかないんだ。砂を平らに均すように、世界がお前の記憶を薄れさせようとする。名前も、声も、その笑顔も。大切なものが春霞の中に消えていく。桜の花びらごと俺の記憶を攫っていく。やめてくれ。俺は忘れたくない。お前を覚えていたい。お前に、会いたい。

『さくら?』
お前は目を丸くして瞬きをする。
『春の花なのか、綺麗だな』
お前は、写真の中でしか知らない花を指でなぞる。
『春になったら、桜を見に行こう』
お前は俺に笑いかけ、遠くの空を見上げる。まだ見ぬ遠い春に思いを馳せる。憧れるように。
『竜馬と俺と、ふたりで』

「……約束、したんだ」

震える声で呟いた。涙が花びらのようにあとからあとから零れ落ちていく。霞んでいく記憶を手放すまいと手を握り締めた。
失うわけにはいかない。忘れるわけにはいかない。果たすべき約束がある。お前がいてくれなければ意味がないんだ。
どれだけ桜が美しく咲いたとしても。たとえこの優しい夢に別れを告げなくてはならないとしても。目覚めた先にあるのが、滅びかけた灰色の世界でも。そこでお前が待っているなら。

「約束?」
ミチルさんがその言葉を反芻する。俺は泣きながら頷いた。
「春になったら桜を見に行くって、約束した。俺とあいつ、ふたりで。あいつはきっと待ってる。だから俺は行かなくちゃいけない」
「大切な約束なのね」
「……ああ」
ミチルさんの声はひどく優しくて、俺はますます涙が止まらなくなってしまった。
俺たちのやり取りを気に留める者は誰もいない。宴会の喧騒が随分と遠くに聞こえるように思えた。みんな、薄紅色の中で笑っている。

「……ごめん、ミチルさん。一緒に花見できなくて」
「いいのよ、気にしないで。……元気でね、竜馬くん」

涙でぼやける視界越しでも、彼女が微笑んでいるのが分かった。俺は一度だけ深く頷いた。そしてミチルさんたちに背を向け、ゆっくりと歩き出す。
後ろ髪を引かれる思いだった。後ろで賑やかな笑い声が起こるたびに立ち止まりそうになった。それでも俺は桜が舞う道を歩いていく。決して振り向いてはいけないと、頭のどこかで分かっていた。
歩いていくうちに、花びらで埋め尽くされていた道は土の地面へと変わり、暖かな春の陽気は薄れゆく。薄紅色で埋め尽くされていた視界はいつの間にか灰色になっていた。冷たい北風が頬を刺してきて、今が冬であることを悟る。気付けば、俺は元いたあの山の中に戻ってきていた。枝しかない、殺風景な冬の桜並木を一人で歩いているのだった。
――戻ってきた。
辺りを見回す。ふと、視線の先に小さな人影を見留めた。……あれは。

「ゴウ!」
俺はもつれそうになる足を必死で動かして走った。お前が振り向いて俺を見る。りょうま、とその口が俺の名前を呼ぶ前に、俺はお前に手を伸ばした。
「ゴウ……!」
両腕で、しがみつくように強く強く抱き締める。お前は俺の背中に腕を回し、抱き締め返してくれた。夢じゃない。お前はここにいる。俺はお前のいる世界に戻ってきた。

「お前……どうして、ここに……」
「竜馬に呼ばれた気がしたから。ここでずっと待っていた」
頬に触れてくるお前の手は氷のように冷たかった。一時間、二時間、いや、もっと長かったのだろうか。俺があちらにいたのは体感ではほんの僅かだったように思えたが、こちらではそれよりずっと長い時間が流れていたのかもしれない。冷え切ったお前の体をもう一度抱き締めた。

「……桜が、咲いてたんだ」
「うん」
「ミチルさんも、武蔵も、死んだ人たちがみんな生きてて、一緒に歳をとってた。早乙女研究所もそこにあった」
「うん」
「桜の木の下で花見をしてたんだ。早乙女のジジイまでいた。ああいう集まりに混ざったことなんて一度もなかったのに。元気の奴と、ちゃんと親子みたいな会話しやがってさ……」
「うん」
「本当に、夢みたいな風景だった。みんな……みんな、笑って……」

それ以上は言葉にならなかった。止まったはずの涙がまた滲み出てくる。お前は俺の背中を優しく撫でた。
「うん。……竜馬が戻ってこられて、よかった。約束を覚えていてくれたんだな」
ありもしない「もしも」に足を取られる俺を、お前は決して責めたりしなかった。俺の後悔と懺悔をただ受け止めてくれる。
お前との約束が俺を繋ぎ止めた。桜を見に行こうと語るその声が、その微笑みが。

風が吹く。
お前が俺の肩越しに顔を上げた。つられて俺もお前と同じ方向を見る。桜の老木が俺たちを見下ろすように立っていた。その存在感に圧倒されて、思わず呼吸が止まる。するとお前は俺を庇うようにして一歩前に出た。その背中は毅然としている。

「……すまない。竜馬は、渡せない」

まっすぐに桜の木を見つめる。まるで睨み合いのようだった。沈黙の中でどんなやり取りが交わされているのかも理解できないまま、俺は息を詰めて見守るしかなかった。
どれだけの間そうしていただろう。緊張で喉がからからに乾いてきたと思ったら、不意にお前は後ろを振り返った。

「よかった、ちゃんと分かってくれたみたいだ。さあ、もう帰ろう、竜馬」
「え、分かってくれたって、何を」
「こっちの話だ」

お前はふわりと笑って俺の手を取った。こっちの話ってどっちの話だよと言いたくなるが、詳しく説明されたところでどうせ俺には一ミリも理解できない話なんだろう。「よく分からんがどうにか丸く収まったらしい」と無理やり自分を納得させるしかない。
手を引かれるまま、俺は桜並木の道を去っていく。さっきまであれほど強く吹いていた北風はいつの間にか止んでいた。春の訪れはもう少し先だ。だが、冬が終わる気配はすぐそこまで来ているように思えた。



桜が、咲いている。

「ちょっとガイ!そっちの端っこちゃんと押さえててよ!風でめくれ上がっちゃうでしょ!」
「あーもう細けえなあ~!分かってるって!」

若者二人がわいわい騒ぎながらブルーシートを広げている。弁慶の部下たちが慌ててその手伝いに入っていった。設営が終わると、花見の参加者たちが次々にシートの上に腰を下ろした。
ケイ、ガイ、弁慶とその一行。タワーの面々に「今日くらいはゆっくりしてくれ」と泣きつかれて、渋々花見に参加することになった隼人。そして司令官を仕事場に戻らせまいと目を光らせている監視役の部下が三名。

「すまない……。ケイにこの桜のことを教えたら、自分も行きたいと言い出してきて……」
「まあいいけどよ……」

ふたりで桜を見に行くという約束だったはずだが、蓋を開けたら随分と大所帯になってしまった。こうなった経緯は容易に想像できる。「桜いいな~!あたしも行きたい!」と騒ぎ立てるケイ、なんだなんだと集まってくるギャラリー、「じゃあせっかくだしみんなでお花見しようよ!」と盛り上がり、何故か隼人まで巻き込んで今に至るってとこだろう。まあ、お前のことだ、ケイにお願いされたら首を横に振るわけにはいかないよなあ。
俺は完全にふたりきりのつもりだったから、正直なところかなり落胆はしている。だが俺以上にお前が申し訳なさそうにしおらしくしているので、それ以上何も言えなかった。

「きゃーーっ!!何!?なんかもぞもぞしたのが足に触った!虫!?ヤダ~!」
「いやこれは蟻だ。そんなに怖がることもないだろう」
「親父は大したことないだろうけど、あたしはもぞもぞするのがイヤなの!」
「蟻だって一生懸命生きてるんだぞ……」

悲鳴を上げるケイを、弁慶がやれやれといった様子で嗜める。ブルーシートの上に乗ってきた蟻を、弁慶がそっと掌に乗せて地面へ帰してやっていた。「変なとこでビビリだなあ」と笑うガイに、「変なとこでっていうのは一言余計でしょ!」とケイが食って掛かった。言い合いが勃発しそうになるのを、弁慶の部下たちが必死で宥めようとする。隼人とその部下は、その騒がしいやり取りを横目に苦笑している。俺の口元にも笑みが浮かんだ。
「賑やかなのも、悪くはねえさ」
お前は確かめるように俺の顔をじっと見上げた。そんなに心配しなくていい。大勢でやる花見だって俺は好きなんだ。そう言い聞かせるように笑いかけると、お前はようやく安心したように表情を緩めた。

「そうだ。今日の弁当は俺とケイで作ったんだ。よかったら食べてくれ」
気を取り直したお前が、シートの上に鎮座する重箱の蓋を開けた。唐揚げ、ソーセージ、ミートボール、エビフライ、おにぎり、卵焼き――「子供の好きな食べ物欲張りセット」みたいな品揃えのおかずが、ぎゅうぎゅうと隙間なく押し込められている。全体的に茶色い。どう考えてもケイのチョイスだろう。加減を知らないところは姉によく似ている。

お前はその中から卵焼きを選び、俺に差し出してきた。……いいのか、それ、「あーん」ってやつだぞ。思わず周りを見回すが、誰も俺たちのことを見ていなかった。断る理由など何もない。
促されるまま頬張ると、脳天を突くような甘さが口いっぱいに広がった。次いでじゃりじゃりした食感が舌の上に乗る。溶け切らなかった砂糖と、どこかの工程で混入した卵の殻だろう。

「…………」
無言になってしまったのは、強烈な甘さと食感が口の中で大渋滞しているからだ。決してまずいとかそういうわけじゃない。口が裂けてもそんなことは言えない。しかし、しかしだ、ちょっと砂糖の量が多すぎやしないか。溶け残りが出るくらいの砂糖の量を平気でぶち込むやつがいるかって……いるんだよな、目の前に。心配そうに首を傾げるかわいいお前が。
どうせケイに「砂糖はいっぱい入れたほうがおいしいよ!」とか適当なアドバイスをされたに違いない。お前はケイの言うことなら何でも聞くから、そのまま全部鵜呑みにしたんだろう。まあ、せめて味見はしてほしかった。お前はともかく、ケイもちゃんと責任持って味見しろよな。いや、味見した上でこれなのか?だとしたら俺が言えることは何もなくなっちまう。

「……甘い卵焼きは、苦手だったか?」
お前が小声で尋ねてくる。そこで俺は、ミチルさんの作る卵焼きが、醤油の風味がきいた出汁巻き卵だったことを思い出した。お前が作った甘い甘い卵焼きとはまるで逆だ。ついでに言うなら料理の腕も。――ああ、抑えきれずに笑みがこぼれる。
「いや。俺は好きだぜ」
お前はあの人によく似てるけど、この世界でお前が見てきたものや感じたことがお前をお前たらしめる。桜を見上げてきらきら輝く瞳も、俺のために繋いでくれた約束も、砂糖を入れすぎた甘い卵焼きも、それらすべてがお前だけのものだ。この世界がお前を生んだ。だから、だから、俺は。


――桜が、咲いている。
お前の髪に、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。お前はそれに気付かないまま、春の光の中で俺に微笑む。まるで夢のような風景だ。だが俺は、これが夢ではないことを知っている。

大切な人にはもう二度と会えず、十三年間の空白はどうしたって埋まらない。世界は相変わらず狂っていて、今も人間同士の争いは絶えず起こり続ける。待っているのはきっとろくでもない未来だ。
それでも、この世界にはお前がいる。だから俺は、襲い来る理不尽に悪態を吐きながらも、お前のそばを離れず生きていくんだろう。滅びかけたこの美しい世界で。






2022/04/05
BGM:花時計 piano arrange/yoin Covered by しほ

「誰に望まれなくたって息をする
君がいなくたって歩いていくから
何か 何か 何か
その意味をくれよ」


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