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書いた小説の倉庫です

この声と色彩が届きますように(チェンゲ竜號)

みんな、泣いていた。

隣ではケイが両手で顔を覆いながら膝を折っていた。ガイも涙を滲ませながらケイの肩を支えた。そこから少し離れた場所で、クジラの乗組員たちも互いに肩を抱き合いながら泣いていた。彼らのリーダーであり父でもあった人を、車弁慶を想って泣いているのだ。

「親父……どうして、ねえ、どうして……っ」

ケイが嗚咽混じりに声を上げる。育ての親としてずっと見守ってくれていた人を失った悲しみは、きっと想像できないほど深い。どうやってその涙を止めてやればいいのか分からなくて、二歩、三歩と距離を置いた。自分には、本当の意味でその悲しみに共感することができない。慰めの言葉をかけることも、背中をさすってやることも、自分には相応しくないと思った。

タワーの構成員たちも悲しみを堪えていた。長く戦いに身を置いていた者たちだからか、涙を浮かべている人はそう多くない。しかし誰もが、彼らの司令であった人の不在を嘆いている。神隼人。十三年間、人類の最後の砦として戦い続けてきたその人を。
慕われていたのだなと思った。時に非情とも映る選択肢を選んだとしても、彼らはその人を信じてここまで来た。そして今、インベーダーの脅威から解放された景色が目の前に広がっている。その美しさを司令と共に見られないのが、彼らは悔しくて悲しくて仕方ないのだろう。

もう一度周りを見渡した。悲しみを抱えて立ち止まる人々。誰もが、目蓋の裏側にその人を思い描いている。弁慶と、隼人と――そこまで考えて、ふと瞬きをした。

竜馬は。流竜馬を想う人は、ここにはいないのか。

いくら人々の呟きを拾おうとしても、滲み出てくる心の声に耳を澄ませてみても、竜馬の名を呼ぶ声は聞こえてこなかった。どこにも、誰にも。
急に、胸のあたりが締め付けられるように痛んだ。今まで感じたことのない痛みだった。服越しに胸を押さえてみても異常はない。それでも、胸の奥底の方で何かが痛むのが分かる。名前のない痛みが消えない。



「ゴウ、またその本見てんのか?ずいぶんお気に入りなんだなあ」

ガイの声が頭上から降ってきて、視線を上に上げた。にこにこした顔のガイと目が合った。ゲッターの整備終わりなのだろう、首にかけたタオルでこめかみに流れる汗を拭っている。

整備場は好きな場所のひとつだった。活気にあふれていて、人々の熱気と息遣いが肌で感じられる。そしてここからならゲッターを見ることもできる。読書をするのには向いていない場所かもしれないが、気付けばここでこの本を読むのが習慣になっていた。

「そのページの写真好き!いかにも日本の春!って感じでさ」

いつの間に来ていたのか、横からケイが覗き込んでくる。それにつられて、膝の上に置いた本にまた視線を落とした。
お気に入りと言われたこの本は、日本の四季を切り取った写真集だった。廃墟となった地上の図書館から一冊貰ってきたものだった。かつて日本という国には四季があり、豊かな自然に囲まれていたのだという。今となってはこうして写真でしか知ることのできない風景だ。

開かれたままのページは淡い色彩で埋め尽くされていた。ピンク、黄色、青、白。知っている色の名前はそれくらいだ。

「これが、春」
「そう。桜に菜の花に青い空!昔は春が一番好きだったなあ。ピクニックになんか行ったりして」

ケイが指差しながら説明してくれる。ピンク色の花が咲く木々は桜。地面に植えられている、小さな黄色の花が菜の花。さくら、なのはな。喉の奥で何度も繰り返し呟いた。
ページをめくると、今度は鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。空に向かって伸びる、背の高い花。太陽に似たフォルム。

「この花の名前は」
「ああ、そりゃヒマワリだ。夏に咲くやつ」
「これは」
「えっと……なんだっけ」
「おいおいそれくらい日本人なら覚えとけって、コスモスだよコスモス」
「だって実物見たのずっと前だし!花の名前なんて覚えてたって仕方ないじゃん!」
「仕方なくはねえよ、なあゴウ?」

さくら、なのはな、ひまわり、こすもす。
教えられた名前を反芻する。忘れないように。本物の花は、どんな色をしているのだろう。どんな香りがするのだろう。咲いているところを見てみたい。この地上が美しく穏やかな風に包まれるその時に。

顔を上げると、ケイとガイが目を丸くしてこちらを見ていた。二人とも少し顔が赤い。どうしたんだと尋ねてみても、「いや……」「お前ってそんな顔もできるんだな」と歯切れの悪い答えしか返ってこなかった。



インベーダーの脅威が取り除かれた地上では、復興が加速度的に進んだ。地下に逃れていた人々も地上へと戻り、手を取り合って生活していた。
一部の地域で研究されていた、野菜の栽培方法などの技術も世界中で共有された。荒れ果てた地上は徐々に緑を取り戻していく。
ゲッター線は、かつてはインベーダーを引き寄せるものとして忌み嫌われていたが、今ではありふれたエネルギーの一つとなっていた。人類はゲッター線に依存することも、ゲッター線を捨てることもなく、生活の中に溶け込ませていく。

ゲッターが戦うことはなくなったが、代わりに復興作業の労働力として駆り出されることになった。物資を運んだり畑を整地したりするのに便利だから、という理由で。
はじめは戸惑いもあったが、こういうゲッターの使い方も悪くはないと思えた。誰かの役に立っているという実感があるからだ。畏怖ではなく感謝の目で見上げられることが増えた。そのたびにふわふわとした気持ちになる。あたたかくて柔らかい何か。嬉しいという感情。ゲッターに乗るためだけに生まれてきた自分が、ついぞ知ることのなかった感覚だった。

「ねえっ、ゴウ!見てよこのトマト!赤くて大きくておいしそうでしょ!」

大きなトマトの入ったバスケットを両腕に抱え、ケイがこちらに近付いてくる。はちきれそうなほどの満面の笑みだ。

「すごいな。これはケイが育てたのか」
「そう、レアンヌたちと一緒にね」

食べてみてよと差し出されたトマトは、ずっしりとした重みがある。先にかぶりついたケイに倣って歯を立てると、瑞々しい香りが鼻を抜け、次に甘みと酸味が口の中いっぱいに広がった。知らない食感と味だった。唇の端からトマトの汁が溢れそうになり、慌てて掌で受け止めようとする。隣でケイが声を上げて笑った。

「ほんと、親父にも食べてほしいなあ……」

ぽつりと呟いた言葉は、ここにはいない誰かに向けられたものだった。ケイの横顔には淋しさの影が落ちていた。声を上げて泣くことはもうない。それでも時々、こうして空を見上げる。永劫の時の狭間で戦うその人が、いつか地球に帰ってきてくれることを願う。

――まただ、と思った。
弁慶には、ケイたちのように帰りを待ってくれている人がいる。隼人にも部下たちがいる。
だが、竜馬はどうなのだろう。竜馬を待つ人は、どこに?

流竜馬という人は、月面での戦いで「伝説」とまで言われたのだという。だが、滅びかけの地球ではそんな称号も意味を成さなくなってしまった。伝説の英雄はもう誰からも必要とされていない。流竜馬が十三年越しに生きていたことを知っているのも、ごく限られた人間だけだ。そしてその限られた人間には既に待つ人がいる。――この世界に、竜馬の帰りを待ってくれている「誰か」はどこにもいないのだ。

また胸が締め付けられるように痛んだ。竜馬のことを考えると、いつもこの痛みが生まれる。悲しみ、切なさ、……あるいは、淋しさ。ひとりぼっちは、さみしい。この痛みを言い表すにはどの言葉も何かが足りない気がしたが、ぴったりと当てはまる言葉は見つからない。
目蓋の裏側が熱をもつ。視界が滲む。瞬きをひとつすると、瞳から雫が一粒こぼれた。それはトマトの表面を滑り落ちて、地面に吸い込まれていった。

「え……ゴウ?」

ケイが驚いた声を上げた。なんでもない、心配しないでくれ、と言いたかったのに、うまく声が出せなかった。喉の奥に何か熱いものが引っかかって、発声を邪魔している。途切れ途切れの浅い息しか漏れ出てこない。

「泣いてるの……?」

そう言われて初めて、その雫が涙と呼ばれるものだということを知った。泣いているのか。そうか、これが涙か。自分が涙を流せるとは思いもしなかった。胸の痛みがよりいっそう強くなる。涙は次から次へと零れ落ちていった。止まらない。苦しい。けれどこの苦しさは、堰き止めない方がいいのだろうと思った。溢れ出るままに流れていく。
どうして涙が出るのか分からない。ただ、これは竜馬のための涙だということだけははっきりとしている。

この世界には、竜馬の帰りを待つ「誰か」はどこにもいない。
――それなら、俺がその「誰か」になろう。

胸の中に湧き上がる痛みが今、確かな輪郭を得ようとしていた。



「種が欲しいたって、あんたにちゃんと育てられるのかい?」
種売りの老婆は、疑うような眼差しをこちらに向けてきた。その手には菜の花の種が入った袋が大切そうに握られている。相応の対価を提示しても、老婆は素直に引き渡してこなかった。

「大切に育てる。育て方も調べた」
「言っとくが昔のやり方は通用せんよ。こんだけの量を買うなら鉢植えじゃなくて地植えするつもりだろう?荒れ果てちまった土地じゃあ土作りから始めにゃならん」
「もちろんそのやり方も調べてある。必要な道具は既に揃えた。あとはその種だけだ」
「なら聞くがね、どうして菜の花がいいんだい」
「……あの景色を、見せたい人がいるんだ」

脇に抱えた本をぎゅっと握りしめた。見渡すばかりの菜の花畑。黄色の花。写真の中にしかない景色に、この地上でもう一度出会いたいと思った。そしてそれを竜馬に見せることができるなら。その願いは揺らがない。
老婆は確かめるように一度こちらを見ると、無言で種袋を差し出してきた。
「この種は、十三年前からずっと大事に取っておいたものだ。駄目にしたら許さんからね」
「ありがとう。肝に銘じておく」



種を蒔く場所は、人のいない静かな平原に決めた。荒れた土地を耕し、肥料を与え、土壌を整える。黒い小さな種を蒔いて土を被せた。こんな粒から本当にあの黄色の花が咲くのだろうかと不思議に思う。

何もかも知らないことだらけだったが、調べた通りに水をやり、肥料を与え、大切に手入れをした。鉢植えで育てるのとは違い、地植えの植物は容易に動かすことができない。雨が降らなければ水やりをしに行き、強い風が吹けば屋根を作ってやった。無事に芽が出ても思うように育たない時には、詳しい人間に話を聞きに行き、育ち方に合わせた肥料のやり方を教わった。



「お、またその本か。よっぽどお気に入りと見た」
いつもの場所で本を読んでいると、ガイが横から本を覗き込んできた。四季の写真集は読み返しすぎて表紙が少しくたびれていた。
「お前、最近畑で菜の花育ててるんだって?お前が自分からそういうことすんの珍しいよな。やっぱそれがきっかけか」
それ、と言ってガイが指し示したのは春のページだった。桜と菜の花の写真が見開きで載っているそのページは、特に何度も見ていたから開き癖がついてしまっている。

「花を育てるのは難しいな。本当に咲いてくれるのか不安になる」
「お前でも不安に思ったりすることあんのか……でも大丈夫だよ、毎日様子見に行ってんだろ?大事に育ててればちゃんと応えてくれるもんだぜ」

そういうものなのか、と首を傾げる。しばらく考えてから、そうだといい、と頷いた。

 

復興作業の手伝いの傍ら、毎日足繁く菜の花畑に通い続けた。気付けば季節は春へと移り変わり、菜の花は黄色の小さな花を咲かせた。

――本当に、咲いた。

本物の菜の花が目の前に咲いていることが信じられなくて、花をじっと見つめたまま数十分ほど呆けてしまっていた。そうしている間に、みつばちが鼻先を通り過ぎていく。耳を澄ますとひばりの鳴き声も聞こえた。植物だけではない、生き物たちもこの地上に戻ってきている。
辺りを見回した。青い空、新緑の山々、黄色の菜の花畑。穏やかな風が頬を撫でる。――そしてまた、空を見た。

「竜馬」
空を見上げるたびにその名を呼び続けてきた。何度でも。返事などなくても。
見せたいと願った景色はここにある。ただ、見せたい相手だけがここにいない。
「竜馬」
もう一度名前を呼んだ。胸が引き攣れるように痛んだ。どうか、どうか、届いてほしい。気付いてほしい。彼が守ろうとした地球は美しい景色を取り戻しつつあること。帰るべき場所はもう用意されていること。そして、彼の帰りを待つ者はここにいるということ。穏やかな風に乗って、この声と色彩が彼に届けばいい。

――その瞬間、誰かと目が合ったような気がした。

「……え?」
瞬きをする。誰もいない。見上げた先にあるのはただ青い空ばかりだ。しかし今、確かに「目が合った」という感覚があった。見えないが、見えた。その目は間違えようもなく、
「竜馬……?」
名を呼ぶとまた視線を感じた。ああ、これは、この目は。
「竜馬!」

繋がった糸を手繰り寄せるように名前を呼び続けた。虚空に向かって手を伸ばす。何も掴めはしない。だがきっと、手を伸ばした先にあの手が待っているはずなのだ。張り裂けそうな胸の痛みが彼の存在を確かに感じ取っている。

眩しい光の粒が視界をかすめる。光は見る間に景色を覆い尽くしていった。眩しさに耐えきれず目を閉じた。もう何も見えない。手を伸ばす。名前を呼ぶ。どうか、どうか、届いてほしい。

「竜馬」

目の前に、泣きそうな顔をした彼がいた。

記憶の中にある彼よりも少し痩せて、疲れた目をしているように思う。触れた手の大きさで間違いなく彼だと分かった。冷たい指先が震えている。両手でその手を包み込むと、彼が小さく息を呑んだのが分かった。とても近くにいるから、微かな息遣いさえも伝わってくる。記憶の中にあるものよりも遥かにはっきりとした感覚だった。幻覚でも夢でもない。これは確かな現実だ。

触れた指先から伝わる体温があまりにも懐かしくて、自然と唇から笑みがこぼれた。不思議と涙は出てこない。悲しみや切なさ、さみしさでもなく、もう一度会えた嬉しさだけが胸に満ち満ちていた。今はただ、笑っていたいと思う。

「帰ろう。俺たちの地球へ」

見せたい景色がある。話したい出来事がたくさんある。伝えたい想いもとめどなく溢れてくる。
すべてはこれからだ。ひとつひとつ丁寧に、ゆっくりと叶えていこう。俺たちにはそれが許されているはずだから。

 


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2022/02/06

BGM:雲外憧憬/Fantastic Youth

「君は今でもあの景色を美しいと思う?」


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