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世界最後の日にキスしよう(竜號)

誰かの声が聞こえた。
振り返って耳を澄ませる。無機質な長い廊下には人影ひとつ見えず、微かな靴音さえ聞こえない。
声が聞こえ始めたのはこれが初めてではなかった。時折どこか遠くの方で声がする。何度も何度も。自分が呼ばれているような気がしたが、人に呼ばれるような心当たりなどどこにもなくて、きっと気のせいだろうと思うことにした。そんな流れをもう数十回は経験している。

戦いに明け暮れて疲れているだけなのだ。いや、疲れるという感覚さえとっくに失われているのかもしれない。
敵が現れて、ゲッターに乗り込んで、叩き潰す。ひたすらにそれの繰り返しだった。無限とも思える戦いの中で、自我は徐々に擦り切れていった。今は何のために戦っているのかも忘れてしまった。
守りたいものがあるはずだった。帰りたい場所があったような気がした。それらすべての記憶は遠いところに置き去られてしまった。自分の名前すら霞がかったように思い出せない。

――また、声が聞こえる。

「■■」
自分が呼ばれていることに気付いて、はっと顔を上げた。目の前によく見知った顔があった。
隼人。ゲッターの二号機乗り。俺の仲間。一つ一つ確かめるように情報を繋ぎ合わせていく。大丈夫だ、こいつのことまでは忘れていない。
「■■、大丈夫か」
おそらく名前を呼ばれたのだろう。だが肝心のその部分だけは、頭の中にこびりつく雑音に掻き消されて聞こえない。

「おいおい、ちゃんと作戦聞いとけよ、■■。お前のミスで計画が狂ったら命取りだぜ」
背後から軽く肩を叩かれる。視線をそちらに向けると、恰幅のいい男が笑っていた。
弁慶。ゲッターの三号機乗り。俺の仲間。そうだ、それだけ分かっていればいい。この二人のことさえ覚えていれば戦える。たとえ俺が俺自身の名前を忘れてしまっても。

「心配すんな。俺はいつでも戦える」
唇の端を持ち上げて歯を見せる。確かこうして笑うはずだった。自然に笑うにはどうすればいいのかも曖昧だったが、目の前にいる二人が安心したような顔を見せたから、きっとこれでいいんだろう。

 


その惑星は、遙か昔にすべての生命が途絶えたのだという。今は文明の痕跡が僅かに残るだけの、何の価値もない星だった。何故そんな場所に降り立ったのかといえば、また同じ「声」がこの星の方から聞こえた気がしたからだ。
目の前には、乾いた土と砂ばかりが広がっている。時折見えるのは岩と、建物の残骸らしきもの。すべての色を失ったように、一面が灰色の世界だ。風が砂を巻き上げていく。
歩けども歩けども景色は変わらなかった。かつては豊富に水が存在し、生命で溢れ返っていたというのが信じられない。こんな場所から声が聞こえるはずなどないのに、何を血迷ったのか。馬鹿らしくて笑ってやろうかと思ったが、顔の筋肉がうまく弛緩してくれなかった。馬鹿は自分だ。誰もいないところで笑う方がどうかしている。

そしてまた、声が聞こえた。

瞬間、勢いよく顔を上げた。間違いない。確かにこの星のどこかから声がする。誰かが呼んでいる。誰を?まさか俺を?そんなはずはない。隼人と弁慶以外に、俺の名を呼ぶ者などいるものか。だって俺は、……俺は?俺は、誰なんだ?
ぐちゃぐちゃに縺れて絡まる思考を放り投げて、声が聞こえた方へと走り出した。もう何も考えなくていい。声に導かれるまま、見渡す限りの荒野をただ駆けていく。
息が切れて、喉はからからに乾いていた。足は棒のようだった。全身に力が入らない。それでも足を動かした。こんなふうに体を動かすのは久しぶりだ。疲れ切って苦しくて、しかし不思議と心は軽い。

死にそうになりながら走り続けた先に、ひとつの色を見つけた。灰色ばかりの世界で唯一といっていい色彩。崩れかかった建物の残骸の陰、ひっそりと隠れるようにして、その黄色の花は咲いていた。すっと背筋を伸ばすように立つ茎の先に、小さい花が無数に集まっている。
――この花を、俺は確かに知っている。
どこかで見たことがあるはずだった。遠い遠い記憶の淵、長い戦いの末に失ってしまったもの。自分の名前の記憶すら手放した自分には、この花の名前を思い出す資格はない。それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。

「……お前か」
問い掛ける声は震えていた。跪き、指先で花弁に触れた。
「お前が俺を、呼んだのか」
風が強く吹いた。黄色い花が揺れる。不意にまばたきをした、その瞬間。

「竜馬」

目の前に、透き通った瞳の少年がいた。

眩しい光の粒が視界をかすめる。何が起こったのか理解できなかった。手を握られていることに気付いて咄嗟に引っ込めようとするが、少年は両手でぎゅっと包み込んできた。もう決して離さないとでも言うかのように。
淡く白い光の粒は、少年の輪郭を縁取ってきらきらと輝いている。幻覚か夢の類かと疑ってまばたきを繰り返した。何度試してみても少年は消えなかった。繋いだ手の先から伝わる体温は本物で、これは紛れもない現実だと囁いてくる。

目を見開いたまま何も言えずにいると、少年は柔らかく微笑んだ。
「……やっと、届いた」
そして、確かめるように、愛おしむように、もう一度。
「竜馬」

囁くように小さな、しかし芯の通った声。その声で呼ばれた名は、自分がとうに失ったと思っていたものだった。
――俺は、
体の奥底から何か熱いものがこみ上げてくる。遠い記憶の淵に置き去りにしてしまった欠片たちが呼び掛けている。戦う理由、守りたかったもの、帰りたいと願った場所。そして、名前。自分は何者であるのか。答えはここにある。呼んでくれた。繋ぎ止めて、思い出させてくれた。どこまでもまっすぐな瞳と声で。
俺は――俺は、流竜馬だ。

名前の記憶を取り戻した刹那、目の前でまた星屑が弾けた。光の洪水が頭の中になだれ込んでくる。
最初から何も失ってなどいなかった。擦り切れそうな心を守るために忘れてしまっていただけだ。本当に大切な記憶は、ずっと静かに息をしていた。どれも忘れてはいけない記憶ばかりだった。底なしの沼から意識を引きずり上げてくれたこと。抗う術を教えられたこと。共に戦ったこと。一つずつ紐解いて、答え合わせをしていく。

「俺は流竜馬で、」
「ああ」
「お前は、ゴウだ」
「……ああ」

微笑みと共に、少年は一度だけ頷いた。繋いだ手を握り返せば、泣きたくなるほど温かいぬくもりが応えた。
「長い時間がかかってすまない。迎えに来たんだ」
もちろん、隼人と弁慶のことも。そう言ってゴウはまた笑った。姿かたちも顔も何ひとつ変わっていないのに、笑い方だけは少し違う。穏やかで柔らかい、まるで春の空気のような笑みだった。

「帰ろう。俺たちの地球へ」

 


眩しさに耐えられずまばたきをしたら、また見たことのない場所に立っていた。
見渡す限り黄色、黄色、黄色。あの朽ちた惑星に咲いていた花が、数え切れないほど咲き誇っていた。――知っている。どこまでも透き通る空の色も、この花の名前も。

「菜の花畑、か。これはまた随分きれいな夢だな」
「夢じゃない。これは現実の地球だ」

手を繋いだままゴウが答えた。これが本当に地球だって?記憶にあるのは荒廃した大地と廃墟ばかりだ。こんなにも美しい場所はもう、地球には残されていないはずではなかったか。
「竜馬が知らないのも無理はないな。あれから結構大変だったんだ。自然環境を少しずつ再生させて、ようやくここまで取り戻すことができた。……竜馬に、ずっとこの景色を見せたかった」
一面に広がる菜の花畑。抜けるような青い空に、真昼の月が仄白く浮かび上がっている。遠くでひばりの鳴き声が聞こえた。黄色と青と白のコントラストが網膜に焼き付く。

見たことがないはずなのにどこか既視感があったのは、幼い頃に通った道によく似ていたからだ。修行のために泣きながら走り抜けたあの道。背丈ほどもある菜の花の海に溺れそうになって、時には花をなぎ倒しながら最短距離を走った。
懐かしい記憶に目を細めた。息を切らせて菜の花畑を突っ切ったことも、この黄色の海には果てがないのかと怖くなったことも、まるで昨日のことのように思い出せる。あの時の息遣いや、頬を伝う汗の感覚まで。
何もかも、まるであの頃に戻ったかのようだった。ただひとつだけ違うのは、隣にゴウがいるということ。手の中にある確かな温かさこそ、今が「現在」であることの証明だった。

不意に、胸が締め付けられるように痛んだ。視界がぼやけて滲む。ああ、こんな感覚も久しく経験していなかった。
「竜馬?」
変化に気付いたのか、ゴウが不思議そうに見上げてくる。顔を見られないように、その体ごときつく抱き締めた。
俺が戦い続けていた理由も、守ろうとしたものも、帰りたいと願った場所も――すべてはここにある。
ゴウの吐息が肩にかかって、笑っているのが分かった。背中に腕が回され、包み込むように抱き締め返される。

「おかえり、竜馬」
「……ただいま」

長い永い戦いの日々は終わった。心を擦り減らしていくだけの世界も静かに閉じた。残されたのは、泣きたくなるほど美しい今と、穏やかな春の空気だけ。
そして、ひとりの男とひとりの少年は、菜の花畑の真ん中ではじまりのキスをした。

 


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2022/01/10

菜の花畑のシーンのイメージソースは山村暮鳥風景 純銀もざいく」です

BGM:雲外憧憬/Fantastic Youth

「手を伸ばした先に 君の手が待ってること
きっと触れる前からわかってた」


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