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願い事の先はここにある(拓カム)

風が吹いている。
欠伸をしたくなるような、穏やかで心地よい陽気だった。拓馬は芝生の上に寝転がり、そよ風に目を細めた。隣に座るカムイは小難しい本を読んでいる最中で、こちらを気に留める様子もない。構ってくれよとちょっかいを出したところで相手にされないだろう。拓馬は仕方なくぼんやりと川原の方を眺めた。

退屈だ、とても。そしてその退屈が得難いものであるということを知っている。ほんの少し前までは、熟睡することすらままならなかった。戦いに明け暮れたあの日々の中では、こんなふうに緩やかに流れる時間に身を任せることなど想像もつかなかっただろう。

ここから少し離れたところに、川沿いの道を、家族連れの三人が歩いているのが見える。父親と母親と、そしてその前を小走りでいく男の子。自分の足で歩いたり走ったりできるのが楽しくて仕方ないという様子だ。
あんな調子じゃすぐ転ぶだろうなと思っていたら、案の定男の子は体勢を崩して地面に倒れ込んだ。小石にでもけつまずいたのだろう。火が着いたように泣き出した男の子に、両親が慌てて駆け寄る。男の子は大泣きしながら母親に両手を伸ばした。抱き上げられたその子は、母親の胸の中でずっと泣いていた。手持ち無沙汰になった父親が、困ったように何事かを我が子に話し掛けているが、男の子は泣くのに必死でひとつも聞こえていないようだった。

しばらくして、男の子はようやく泣き止んだらしい。真っ赤に泣き腫らした目を擦って、今度は父親に向かって両手を広げた。母親から男の子を受け取ると、背の高い父親は思い切り男の子の体を高く持ち上げた。悲鳴にも似た歓声が上がる。上げては下げてを何度か繰り返し、父親に肩車をされる頃になると、男の子はすっかり上機嫌になっていた。さっきまで大泣きしていたとは思えないほど。

そうして三人の親子はまた歩き出した。ゆっくりと、川の流れる速さに合わせるように。
拓馬は、そんな家族の様子を静かに見つめていた。

あのように親子で過ごした記憶など、拓馬にはどこにもない。父親の顔は写真でしか知らず、母親も幼い頃に亡くした。一度も経験したことのない感覚であるはずなのに、懐かしいと思ってしまうのは何故だろう。胸が締め付けられるような気がする。
羨ましいだとか、淋しいとか、悲しいという感情ではない。どんな表現もぴったりと当てはまるわけではなかったが、その中で言葉を選ぶとしたら「憧れ」が一番近い。欲しいと思っても決して手に入れられなかったもの。運命がほんの少し違っていたら、「そこ」にいたのは自分だったかもしれない。

微かに残る記憶が心の片隅で息をしている。母親に手を引かれて歩いたこと。繋いだ手のぬくもり。柔らかくて、優しくて、あたたかな記憶。
今はすべて失われてしまった。遠い遠いところに行ってしまって、もう戻らない。

――それでも、あの子の居場所を守ることは、できた。

拓馬はもう一度あの家族を見た。川原を歩く三人の後ろ姿は、もうすっかり小さくなっている。いつの間に肩車をやめたのだろう、男の子は両親と手を繋いで歩いていた。右手には父親、左手には母親。拓馬が一度も知らないその感覚を、あの子は当たり前に両手で受け止めている。その「当たり前」が決して「当たり前」ではないということを、あの子はずっと知らないままでいい。何一つその「当たり前」を疑わないでいてくれていい。それこそが今まで拓馬が戦ってきた意味になる。

「……拓馬?」

上からカムイの声が降ってきた。怪訝そうな、戸惑いを含んだ声。読書の手を止めたカムイがこちらを見ている。
「泣いているのか」
そう言われて、拓馬はやっと自分が涙を零していることを自覚した。あたたかい涙が、あとからあとから零れてきて頬を濡らす。慌てて目を擦っても止まらなかった。なんだ、これは。
カムイは視線を上げて、拓馬が先程まで見ていたものを同じように見た。遠くに消えていく家族の後ろ姿。目を細めると、また拓馬を見た。カムイは何も言わなかったし、何も訊いてはこなかったが、涙の理由はきっと察しているのだろうと思った。カムイもまた拓馬と同じような境遇の子供だからだ。

「……」
カムイの手が伸びてきて、拓馬の髪に触れた。まるで犬や猫にそうするかのように、カムイは拓馬の頭をわしゃわしゃと撫でる。手付きがややぞんざいなのは、頭を撫でるという行為に慣れていないからだろう。体温の低い、骨ばった固い手だ。記憶の淵にある母親の手とは似ても似つかない。けれど、安心できるところは同じだった。

「……大丈夫だって。これは、悲しい涙とかじゃねえから」
「知ってる」

それでもカムイは撫でてくる手を止めなかった。カムイなりの慰めや励ましのつもりなのかもしれないが、おかげで拓馬の髪の毛はぐしゃぐしゃになった。
瞬きを、ひとつ。気付けば涙は零れ落ちるのをやめていて、遠くにあった家族の背中はもう見えなくなった。あとには穏やかな陽の光と、柔らかい風と、頬に触れるカムイの指の感覚だけが残った。
幸せの定義など知らないが、自分にとってはこれが幸せと呼ぶべきものなのかもしれない。そうであってほしい、と確かに思った。

 


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2021/12/05

BGM:WISH/majiko

「涙が出るけど 悲しい涙じゃないんだ
ただ、きみと二人で進もう ぬかるんだ道も」


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