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ファーストキスは鉄の味(拓カム)

※拓カムのラッキースケベに獏と神隼人が巻き込まれる話

 

ドゴオ!と聞き慣れた音がして、獏は思わず耳を塞いだ。この音が聞こえたら、大抵の場合面倒なことが起こる。しかも獏は音を聞くより先に問題の現場をその目で目撃してしまっていた。
大きな音と共に吹き飛ばされた拓馬が、受け身を取り切れずに床に体を打ちつけた。殴られた衝撃で派手に鼻血が吹き出している。

「いってえな!何すんだこの野郎!」
「それはこちらの台詞だ!」

殴った方と殴られた方が真正面から対峙する。殴ったのはカムイで、殴られたのは拓馬だ。両者とも全身から怒りを発しているが、カムイのそれは拓馬の比ではない。それはそうだ、と獏は先程目撃した一部始終を思い返した。

アークの実技訓練を終えて各々解散した直後の出来事だった。フロアに張り巡らされた配線に足を取られた拓馬が派手に転び、近くにいたカムイを巻き込んで倒れた。ただ単に転んだだけならよかったのだが、トラブル体質の拓馬が成せる技というかなんというか、転んだ拍子になぜかカムイの作業服を引き剥がして上半身を露出させ、インナーの上からその胸をむんずと鷲掴みにしたのだ。そして被害はそれだけに留まらない。転んだ勢いのまま、拓馬の顔がカムイの顔に近付いて――唇が重なった。要するに二人はキスをした。
どこをどうしたら、ただ転んだだけでそんなことが連鎖的に起こるのか。ぎょっとした顔で二人が硬直したのも束の間、カムイの渾身の右ストレートが拓馬の顔面に届いた。さっきの音はパンチが叩き込まれた音だったのだ。

「なんかいろんなとこ触っちまったのは悪かったよ!でもしゃーねーだろ転んじまったんだから!お前も見てただろ!」
「そんな言い訳が通用するとでも!?」
「言い訳じゃねえし!不可抗力だし!」
「よほど俺をコケにしたいようだな……!」

二人ともでかい声で言い合うものだから、周りにいた整備員や研究員が何事かと集まってくる。ギャラリーが増えたのを見てカムイは舌打ちをした。
「貴様のような下劣な輩に付き合わされるのはもうこりごりだ……!」
拓馬に脱がされた作業服を整え直し、服の袖でごしごしと唇を拭う。あ、やっぱ気にしてたんだな、と獏は意外に思った。
カムイは物凄い目つきで拓馬をひと睨みすると、脇目も振らずにその場を立ち去った。床を踏みしめるように歩いていく足音に怒りが滲んでいる。取っ組み合いの喧嘩にならなかっただけましだと思いたいが、遺恨は根深そうに見えた。

拓馬は「なんだ逃げんのか!」と息巻いていたが、右ストレートを食らったダメージは大きかったらしく、カムイの後を追うことはなかった。それ以上の喧嘩が起こらないのを見てギャラリーも散っていく。あとには赤くなった頬をさする拓馬と、溜息をつく獏だけが残された。
「拓馬、またカムイを怒らせたな」

また、と言うからには今回のような出来事は一度や二度ではないのだ。少なくとも片手で収まりきらないくらいには同様の場面を見ている。いわゆるラッキースケベというやつを。ハプニングの種類はその時々によって異なるが、脱がせるのがズボンだったり、鷲掴みにするのが尻だったりする。そしてそのたびにカムイは拓馬を常人の五倍のパワーで殴るのだった。相手が異様に頑丈な拓馬でよかったというべきなのか。同じことを普通の人間が経験していたらとっくに全身の骨が砕けているはずだ。
獏が目撃しただけでもそのレベルなのだから、当然、獏が見ていないところでも無数にそのハプニングは発生しているのだろう。ここまで回数が重なると何らかの恣意的なものを感じずにはいられないが、当の拓馬には一切そのような気配は感じられない。故意ではなく本当に偶発的に起こる出来事なのだ。マンガかよ、と獏は笑ってしまう。いや本人たちにしてみれば笑いごとではないのだろうけれども。現に拓馬は不本意そうな顔で唸り声を上げている。

「わざとじゃねえ」
「わざとじゃなくても駄目なことはあるだろ。流石にあれはグーパンするのも分かるぜ。お前、ラッキースケベの才能あるんじゃないのか?」
「なんだよラッキースケベって」
「ハプニングに乗じてエロいことが起こるやつだよ。パンチラしたりおっぱい触ったり」
「……あいつの胸、予想外に柔らかかったな。筋肉なのに」
「わざとじゃないとか言いつつしっかり堪能してんじゃねえか」

拓馬が右手の指をにぎにぎと動かしながら感慨深そうにそんなことを言うので、獏は思わず突っ込みを入れずにはいられなかった。健康的な男子の反応すぎて笑ってしまう。
長年の付き合いなので、獏は拓馬が年齡の割にその手のこと――要はおっぱいだの尻だの――にいまいち関心が薄いらしいということは知っていた。そういう欲やら何やらのリソースを全て「復讐」の二文字に注ぎ込んできたからなのだろう。この親友にもようやく春が訪れたのかと安堵しなくもないが、とはいえ、相手が同い年の男というのが心配なところではある。しかもハチュウ人類と人間のハーフ。確かにカムイは顔立ちも整っているし妙に色気があるのは分かるが、それでいいのだろうか。復讐に人生を捧げすぎてどこか拗れているのかもしれない。

そんな獏の心配をよそに、拓馬は眉根を寄せて遠くを見やった。見つめる先はカムイが去っていった方向だ。
「つうか俺だって被害者だ。一応ファーストキスだったんだぜ」
「え、ファーストキスとかいう概念知ってたのかよ」
「お前俺をなんだと思ってやがる……」

拓馬のことを見くびりすぎていたのかもしれない。案外お前もそういうの気にするのな、と意外に思う。そして同時に、服の袖で口を拭っていたカムイの姿を思い出す。あいつの方はどうだったんだろうか。獏には知る由もないことだが。
ラッキースケベ的な場面はこれまでにも幾度となく起こっていたが、キスまで行ったのは確かに今回が初めてかもしれない。カムイが拓馬を殴る勢いがいつもより強かった気がしたのもそのせいか。ハチュウ人類にとってもキスというのは特別なことらしいという学びを得た。たぶん今後の人生に何一つ役立たない学びだ。

拓馬はカムイのように自分の口を拭うことはしなかった。ただ、気にしてはいる。それを不快なものとして受け取ってはいないということは獏にも分かった。不快ではない、むしろその逆だ。拓馬本人に自覚はないようだった。隣で見ている獏の方がよほど拓馬の心情の機微を感じ取っている。

「ハチュウ人類ってのはもっとゴツゴツしてるもんだと思ってた。皮膚とか」
拓馬がぽつりと呟いた。獏に聞かせる言葉というより、独り言に近い。腕組みをしながらしきりに首を傾げている。
「粘膜だからなのか?思った以上になめらかでひんやりしてたな。なんか意外だった。コンニャクみてえな感じ」
「お前それ絶対カムイの前で言うなよ……」

拓馬の呟きが、カムイの唇についてのコメントであることは間違いない。やっぱりしっかり堪能してんじゃねえか!と内心でまた突っ込みを入れてしまった。まるで食レポのようにキスの感想を述べるところといい、コンニャクのようだと表現する情緒のなさといい、拓馬らしいと言えばそうだが、カムイが聞いたら発狂しそうだ。いやもう発狂してるか。あんな凄い勢いでグーパンをかましたんだから。
ラッキースケベが本当に拓馬にとってラッキーなものになってしまうのも時間の問題なのかもしれない。獏は天を仰いだ。
――カムイ、お前大変な奴に気に入られちまったな。こいつの執着心は半端じゃないぜ。
拓馬の隣で長年その一挙手一投足を見てきた獏なので、説得力が尋常ではない。獏は片手を顔の前に翳し、南無のポーズを取った。



カムイは足で床を踏み鳴らしながら、一目散に司令室へ向かっていた。握り締めた拳は先程からずっと怒りで震えている。廊下ですれ違う研究員は、カムイの姿を見るや否や脇に退避して道を譲った。有無を言わせぬ怒りが彼の周囲に渦巻いていたからだ。カムイはまた服の袖で口を拭った。何度そうしてもあの感触が消えないような気がして舌打ちする。
「神司令!」
司令室に入るや否や、カムイは勢いよく隼人に詰め寄った。対する隼人は「またか」と言うような顔でカムイを迎える。

「一刻も早くあの男をここから追い出してください。アレと同じ空気を吸っていると思うと虫酸が走る!」
「念のため訊くが、拓馬のことか」
「そいつ以外の誰がいると言うんです!!」

普段は隼人の前では冷静な態度を取るカムイだが、この時ばかりは感情を爆発させていた。余程のことがあったらしいと推測する。
「またあいつと何かあったのか」
「それは……」
カムイが拓馬に対する不平不満をこぼすのは今に始まったことではない。じろじろ見てくる視線が癪に障るだとか、あいつの操縦は荒っぽくて命を預けたくないだとか、チームを組むには性格が合わなすぎるだとか、例を挙げればきりがない。今回も同じように愚痴を聞いてやれば満足するだろうと思ったのだが、少しばかりカムイの反応が変だ。隼人が事情を聞こうとすると、カムイは言い淀み、困惑したように眉根を寄せて視線を逸らした。

「流拓馬に胸を揉まれたり唇を奪われたりするのが嫌だ」と、正直に言えるはずがない。口が裂けても言いたくない。とりわけ相手が神隼人ならば尚更だ。尊敬する司令官にそんな恥を知られるくらいなら首を括ったほうがましだ。カムイは俯いて唇を噛み締めた。
「……何があったっていいでしょう。とにかく、アレとはもう一緒にいたくないんです」
察してくれ。いや察さないでくれ。相反する感情がカムイの中に渦巻く。もどかしさに暴れ出してしまいそうだ。

しかしそんなカムイの葛藤を、隼人は「いつもの愚痴」だと判断した。軽く溜息をつく。
「カムイ、いつまで子供のような我侭を言っているつもりだ」
「わ、わがまま……?」
「お前ももうすぐ二十歳だろう。少しは折り合いをつける努力をしてみろ。お前が頑なな態度だから、拓馬も反発するんじゃないのか」

隼人の言葉に、カムイは雷に打たれたような衝撃を受けて固まった。目を見開いて二歩三歩と後ずさる。
付き合いの長い神司令ならば、この屈辱を少しでも理解してくれるのではないかと期待していたのだ。本当のことを包み隠さず言えないのが悪いのは分かっているが、それでもこんなふうに逆に諭されるような真似をされるとは思ってもみなかった。自分はこれから、あの男に胸やら尻やらを鷲掴みにされる日々を甘んじて受け入れなければならないというのか。それだけは絶対に嫌だ。たとえ神司令に歯向かってでも。

「……あんたに期待した俺が馬鹿だった」
吐き捨てるようにカムイが言った。隼人は「え、」と気の抜けた声を上げる。
「あいつはあんたのお気に入りですからね。なんてったって『流竜馬の息子』だ、俺なんかよりあいつの方を手元に置いておきたいんでしょう。それなら俺が出ていきます」
「いきなりどうしたカムイ、」
「最初からこうすればよかったんだ」
「お、おい待て!何がどうなってる!」
「さようなら神司令。お世話になりました」
「カムイ!」

隼人の制止も聞かず、カムイはくるりと背を向けて司令室を出ていった。有無を言わせぬ態度だった。カムイを呼び止めようとして腕を伸ばした状態のまま、隼人は放心したようにその場に取り残された。
隼人はようやく思い知った。カムイに遅い反抗期がやってきたことを。

――それから間もなくして、拓馬に緊急無線で「お前はカムイに何をやらかしたんだ!」と隼人から呼び出しがかかり、それを受けて拓馬が一連の出来事を包み隠さず白状した。
家出の準備を着々と進めていたカムイが、隼人に全てを知られたことに気付いて怒り狂い、拓馬を再び殴り飛ばしたのは言うまでもない。

 


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2021/10/30